〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/21 (土) せい そう (二)

彼は、権中納言知盛であった。
知盛は、みずから自船を焼き捨て、同船の一族と郎党を、小舟小舟に乗せ かち、自身は、みかどの船御所へ、 ぎ急いで来たのである。
ともに、漂い出た無数の小舟は、散り散りに、思い思いに、途中では減っていった。どこまでもと、続いて来る舟は少ない。
知盛は、知っても、怒りはしなかった。わざと、逃げよと言わぬばかりに見える。
「いずこへなと、漂い着きて、生きよ」 と、願っているのかも知れない。
かつまた、彼の面には、なんら怨念おんねん らしい隈取くまど も悔いもなかった。── 矢傷の血、ざんばらな髪、草摺くさずり の破れなど、鬼神の扮装ふんそう を除いてただ人間の真骨髄だけを見るならば、その静かな は、日ごろのとおりであったといっても過言ではない。 「── 勝敗は見えた。戦いはよく尽くした。悔いはない」 と、すずやかな菩提ぼだい の波上に、身は任せているらしい彼なのであった。
「や、や。黄門こうもんきみ にてはおわさぬか」
彼の姿を迎えると、衛士の大将伊賀平内左衛門は、駈け寄って来、
四方よも のお味方、さんざんには見えまするが、なお、みかどや女院にも、おつつがはござりませぬ。お安堵あんど なされませ」
と、問わぬうちに、息せいて言った。
「・・・・・・・・」 ただ、うなずいて 「── さっそくこれへ、お側の典侍たちを、呼び集められよ。知盛より申す事のあれば」
「心得まいた」
平内左衛門は、船底の口へ向かって、知盛が来たよしを告げ、典侍の幾人かを上へ呼んだ」
さなきだに暗い船底の御所は、もう黒白あやめ もわからぬほどだった。── 知盛が来たと聞くと、やみは、人間の官能だけを詰めている真空に見えた。すすり泣きすら今はしていない。
上では、典侍らに言い渡している知盛の声が、静かにしていた。
「── 残る味方は、なおあのように、諸所において、さいごのさいごまで、戦うておることゆえ、敵が、ここ目がけて、 せて来るまでには、まだしばらくの間はあろう」
覚悟はしていても、知盛から言われると、彼の前にある女房たちは、声をあげて悲泣した。
いや、彼女たちばかりでなく、すぐ側には、御簾一重の屋形があった。その屋形のうちには、二位ノ尼や修理大夫経盛や、一門の僧たちが、ひそと、影をつらねて居並んでい、おなじ声を、じっと、聞いていたのである。
知盛は、語をつづけて、
「── おそ れ多くはあれど、みかどや女院へも、今さらお覚悟などのことは、申しあぐるまでもあるまじ。・・・・ただ、やがてここにも、源氏の荒武者どもの踏み入るところとなれば、東国のやから に、御最期ごさいご の有様なんども、ぜひなく見とどけられましょう。されば、世のはしたなき口の語り草にかからぬよう、清げに、おん身づくろい持たせ給うはいうまでもなし、おん住居の跡にも、ちり だに見ぐるしき物はとどめ給うな。── 兵どもにも申し渡せば、今より船上を掃きぬぐうてきよ め申さん。── そのよし、女院へも、おつたえ申し上げられよ」
と、諭した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next