彼は、権中納言知盛であった。 知盛は、みずから自船を焼き捨て、同船の一族と郎党を、小舟小舟に乗せ分
かち、自身は、みかどの船御所へ、漕こ
ぎ急いで来たのである。 ともに、漂い出た無数の小舟は、散り散りに、思い思いに、途中では減っていった。どこまでもと、続いて来る舟は少ない。 知盛は、知っても、怒りはしなかった。わざと、逃げよと言わぬばかりに見える。 「いずこへなと、漂い着きて、生きよ」
と、願っているのかも知れない。 かつまた、彼の面には、なんら怨念おんねん
らしい隈取くまど も悔いもなかった。──
矢傷の血、ざんばらな髪、草摺くさずり
の破れなど、鬼神の扮装ふんそう
を除いてただ人間の真骨髄だけを見るならば、その静かな眸め
は、日ごろのとおりであったといっても過言ではない。 「── 勝敗は見えた。戦いはよく尽くした。悔いはない」 と、すずやかな菩提ぼだい
の波上に、身は任せているらしい彼なのであった。 「や、や。黄門こうもん
ノ卿きみ にてはおわさぬか」 彼の姿を迎えると、衛士の大将伊賀平内左衛門は、駈け寄って来、 「四方よも
のお味方、さんざんには見えまするが、なお、みかどや女院にも、おつつがはござりませぬ。お安堵あんど
なされませ」 と、問わぬうちに、息せいて言った。 「・・・・・・・・」 ただ、うなずいて 「── さっそくこれへ、お側の典侍たちを、呼び集められよ。知盛より申す事のあれば」 「心得まいた」 平内左衛門は、船底の口へ向かって、知盛が来たよしを告げ、典侍の幾人かを上へ呼んだ」 さなきだに暗い船底の御所は、もう黒白あやめ
もわからぬほどだった。── 知盛が来たと聞くと、やみは、人間の官能だけを詰めている真空に見えた。すすり泣きすら今はしていない。 上では、典侍らに言い渡している知盛の声が、静かにしていた。 「──
残る味方は、なおあのように、諸所において、さいごのさいごまで、戦うておることゆえ、敵が、ここ目がけて、襲よ
せて来るまでには、まだしばらくの間はあろう」 覚悟はしていても、知盛から言われると、彼の前にある女房たちは、声をあげて悲泣した。 いや、彼女たちばかりでなく、すぐ側には、御簾一重の屋形があった。その屋形のうちには、二位ノ尼や修理大夫経盛や、一門の僧たちが、ひそと、影をつらねて居並んでい、おなじ声を、じっと、聞いていたのである。 知盛は、語をつづけて、 「──
畏おそ れ多くはあれど、みかどや女院へも、今さらお覚悟などのことは、申しあぐるまでもあるまじ。・・・・ただ、やがてここにも、源氏の荒武者どもの踏み入るところとなれば、東国の輩やから
に、御最期ごさいご の有様なんども、ぜひなく見とどけられましょう。されば、世のはしたなき口の語り草にかからぬよう、清げに、おん身づくろい持たせ給うはいうまでもなし、おん住居の跡にも、塵ちり
だに見ぐるしき物はとどめ給うな。── 兵どもにも申し渡せば、今より船上を掃きぬぐうて浄きよ
め申さん。── そのよし、女院へも、おつたえ申し上げられよ」 と、諭した。 |