平大納言時忠は、その日、臨海館址
を出て、赤間の東端はず れの一漁村に、早くから身をひそめていた。 前夜来、阿波民部の郎党、数十名が、彼の身辺を守ってい、子息の讃岐中将時実も、串崎から戻った後、終始、父のそばにいる。 連れの弁慶は、早や沖へ去った。 「はて、どうしたのでございましょう?」 時実は、たえず父の面をうかがった。──
その父も、刻々に傾く陽脚ひあし
に、憂いを濃くして、むなしい沖を、あんたんとただ、凝視していた。 「阿波の者、舟は何艘あるか」 「小舟三ぞうしかございませぬ」 「こう、待ち暮せど、沖の便りはついにないか。むなしく、夕となり、夜とならば、悔ゆるも及ぶまい。・・・・時実、これやなんとか、思案をかえずばなるまいて」 言っている時だた。──
待ちかねていた帥そつ ノ局つぼね
からの秘使が、一そうの小舟の底に身を伏せてここに着いた。 櫓ろ
を漕こ いで来た一兵は、局が日ごろ目をかけていた郎党だろう。が、大事な文は、一女性の肌に持たせて寄こしたのである。 彼女は、舟底に身を伏せ、上から苫とま
をかぶっていた。見れば、治部卿じぶきょう
ノ局つぼね の姪で龍田たつた
ノ典侍てんじ という気丈な女性であった。 時忠は、ぎょっとした。 なぜならば、治部卿ノ局は、権中納言知盛の義妹である。つながる縁の女子であれば、早や知盛の知るところとなったかと、事の破れに、と胸を突かれたからだった。──
けれど、龍田ノ典侍の話を聞いて、ほっとまた、胸なで下ろしたことでもあった。 「みかどのお側に残っている女房がたは、帥そつ
ノ局つぼね のお打ち明けをうけ、みかどのおん命だに安かるものならばと、ひたすら、心を一つにしておりまする。神仏のおん手を待つように、奇瑞きずい
の顕あら われがあろうことを、暗い船底にて、ただただ、祈りおうておりまする」 龍田ノ典侍は、そう言った。 それすら、上わの空に聞きつつ、時忠に手は、妻の密書を披ひら
いていた。さしも剛愎ごうふく
な時忠すらも、指に、かすかなふるえを見せた。時実も気が気でない。 「ち、父上・・・・。吉左右、なんと見えまするか。母君のその御書状には」 「おなじ御船には、二位どのが乗っておられる。伊賀平内左衛門、越中次郎兵衛盛嗣もりつぐ
など、 内大臣おおい の殿との
から旨をうけた目付人めつけびと
も守っている。その中でのこと。密使を出すもむずかしゅうて、ずいぶん、 帥そつ
も心を砕いたらしいぞ。・・・・が、詳しいことは、いま話しているいとまはない。すぐ、それへ参ろう」 「では、それのおん在所ありか
も」 「分かった。── 帆桁ほげた
に掲げた細き黄旗が目印めじるし
とある」 「やれ、それなれば」 「仔細しさい
、ただちに、阿波民部どのへ知らせ、また、阿波どのより判官どのへ、即刻の報を頼みたいぞ。── 三艘のうち、一艘はその由を持って、先に急げ」 彼の言下に。 すぐ、阿波の郎党三名が、先へ沖へ出て行った。 時忠父子は、自分たちの隠れていた漁夫の家へ、龍田の身を託し、二艘の小舟に乗りわかれて、すぐ沖なる乱軍のうちへ、紛まぎ
れ入った。── で、当然、時刻からすれば、義経は自船を捨てて小舟に移ったころよりも、時忠父子の方が、だいぶ早くに沖へ出て、空の黄旗を、さまよい捜していたわけである。 ──
が、それよりも、なお少し前のこと。 檣頭しょうとう
に黄旗の見える船御所の横へは、幾艘もの小舟が黒々と寄っていた。同時に、ゆゆしげな人影の幾つかがその船上へ登って行った。 |