〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/19 (木) だい (二) 

義経に出会い、彼と一期いちご の勝負をして果てん、というのが、教経の願望だったのではあるまおか。
いわば彼自身の悲壮な心理のかな でを、極致にまで高める死に花として 「── 敵将義経をも道づれに」 と、死神の如く、つけねら っていたらしく察しられる。
で、義経が小舟に移り、挺身ていしん 、平家の中へ突き進んで来たのをみとめ、教経も 「すわ、判官が姿を見せし」 とばかり、小舟を飛ばして来たものだろう。
もちろん、この時、源氏方でも、義経の意を知って、副将の田代信綱や、安田義定、梶原一族まで、ほとんどが、大船から小型の兵船へ、乗り移っていた。巨船と巨船との海戦から、波間の白兵戦へと、様相はいよいよ終局へ来ていたのである。
だから、教経と義経の衝突だけでなく、源平の小艇戦は、随所の海面を赤くしていたのである。小松新三位資盛やその弟の少将有盛などの公達も、この一瞬ひととき に、浪間の華と消えて散り、左中将清経も最後と聞こえた。── そして教経の朗従、権藤内貞綱も討死を遂げたのだが、ひとり教経のみは、不死身の夜叉やしゃ のように見えた。古典によれば、このさい、権中納言知盛から、人をもって教経へ。 「── いとう罪な作り給いそ」 と、その殺戮さつりく ぶりの余りなのを止めて 「ただ き敵へ組み給え」 と、言い寄こしたと伝えられるが、すでに破局の乱麻らんま の中、どうであろうか。
それにしても、大豪だいごう という風貌ふうぼう ではなし、むしろ、病弱とすら都では言われていた教経の、勇猛ぶりには、敵味方なくそれを偉として、人びとはきも をつぶした。── しかし常に主戦を唱えて、平家をこれまで引きずって来た彼とすれば、当然な責めと死の道を示したまでのことであろう。
ともあれ、教経は、義経をここに見出した。
一念、彼はその大童おおわらわ な姿を、命に花火そのものに見せて、義経の小舟へ、自己の舳先へさき を当てて行くやいな、
卑怯ひきょう っ。── 判官っ、卑怯ぞ」
と、絶叫していた。
たしかに、義経らしき小兵こひょう な大将が、ひよどり の如く、ひらと、ほかの舟へ逃げたのを見たからだった。
おりから源氏の小艇も無数に寄っていた。
義経は、その幾艘かを跳んで、教経の切っ先を避けた。
「待てっ。あからさま、こう名乗られながら、逃げ給う法やある。判官きたな し、返せ、返せ、末代笑いぐさぞ」
髪振り乱して、相手を じしめながら、教経も、一、二艘は跳んだが、ついに義経を見失った。そして、身は東国勢の重囲の内にあるのを知って、
「むっ、無念」
と、引っ掴んでいた一人の武者を、どうと、潮のうちへ蹴放けはな した。
安芸大領あきのたいりょう実康さねやす の子、太郎実光とその弟の次郎とが、同時に、彼の両脇から組みついた。
いまは大薙刀なぎなた も失っていた教経は、右手で安芸太郎の首の根をつかみ、片手に次郎の帯際おびぎわ を抱きこんで、
「死出の道づれは、判官とこそ したれ。なんじらの供は、不足なれど、いで連れて行かん。やあやあ、敵も聞け、味方も見よ。故太政入道どののおい 、能登守教経、生年二十六、いま世を辞す。さらばぞ」
いい終わるまで、二人の体を引っつるしたまま、金剛力こんごうりき で踏みこられていた。そして、だだだと、二歩三歩、揉み歩いたかと思うと、舟べりを蹴って、それなり海中へ、どうっと躍りこんでしまった。
滝のような飛沫ひまつ が立ち、それは一瞬の水泡と し去った。それなり教経も安芸兄弟も、浮いては来ない。── ちょうどまた、潮時刻も、西流の急を最盛にしてい、夕せまる海峡の内は、人の作る阿鼻あび 叫喚きょうかん のあらしのほか、べつに海水の異様な底鳴りをも抱えて、世の春もよそに、ごう の大悲譜をかな でていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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