義経に出会い、彼と一期
の勝負をして果てん、というのが、教経の願望だったのではあるまおか。 いわば彼自身の悲壮な心理の奏かな
でを、極致にまで高める死に花として 「── 敵将義経をも道づれに」 と、死神の如く、つけ狙ねら
っていたらしく察しられる。 で、義経が小舟に移り、挺身ていしん
、平家の中へ突き進んで来たのをみとめ、教経も 「すわ、判官が姿を見せし」 とばかり、小舟を飛ばして来たものだろう。 もちろん、この時、源氏方でも、義経の意を知って、副将の田代信綱や、安田義定、梶原一族まで、ほとんどが、大船から小型の兵船へ、乗り移っていた。巨船と巨船との海戦から、波間の白兵戦へと、様相はいよいよ終局へ来ていたのである。 だから、教経と義経の衝突だけでなく、源平の小艇戦は、随所の海面を赤くしていたのである。小松新三位資盛やその弟の少将有盛などの公達も、この一瞬ひととき
に、浪間の華と消えて散り、左中将清経も最後と聞こえた。── そして教経の朗従、権藤内貞綱も討死を遂げたのだが、ひとり教経のみは、不死身の夜叉やしゃ
のように見えた。古典によれば、このさい、権中納言知盛から、人をもって教経へ。 「── いとう罪な作り給いそ」 と、その殺戮さつりく
ぶりの余りなのを止めて 「ただ好よ
き敵へ組み給え」 と、言い寄こしたと伝えられるが、すでに破局の乱麻らんま
の中、どうであろうか。 それにしても、大豪だいごう
という風貌ふうぼう ではなし、むしろ、病弱とすら都では言われていた教経の、勇猛ぶりには、敵味方なくそれを偉として、人びとは胆きも
をつぶした。── しかし常に主戦を唱えて、平家をこれまで引きずって来た彼とすれば、当然な責めと死の道を示したまでのことであろう。 ともあれ、教経は、義経をここに見出した。 一念、彼はその大童おおわらわ
な姿を、命に花火そのものに見せて、義経の小舟へ、自己の舳先へさき
を当てて行くやいな、 「卑怯ひきょう
っ。── 判官っ、卑怯ぞ」 と、絶叫していた。 たしかに、義経らしき小兵こひょう
な大将が、鵯ひよどり の如く、ひらと、ほかの舟へ逃げたのを見たからだった。 おりから源氏の小艇も無数に寄っていた。 義経は、その幾艘かを跳んで、教経の切っ先を避けた。 「待てっ。あからさま、こう名乗られながら、逃げ給う法やある。判官汚きたな
し、返せ、返せ、末代笑いぐさぞ」 髪振り乱して、相手を辱は
じしめながら、教経も、一、二艘は跳んだが、ついに義経を見失った。そして、身は東国勢の重囲の内にあるのを知って、 「むっ、無念」 と、引っ掴んでいた一人の武者を、どうと、潮のうちへ蹴放けはな
した。 安芸大領あきのたいりょう実康さねやす
の子、太郎実光とその弟の次郎とが、同時に、彼の両脇から組みついた。 いまは大薙刀なぎなた
も失っていた教経は、右手で安芸太郎の首の根をつかみ、片手に次郎の帯際おびぎわ
を抱きこんで、 「死出の道づれは、判官とこそ期ご
したれ。なんじらの供は、不足なれど、いで連れて行かん。やあやあ、敵も聞け、味方も見よ。故太政入道どのの甥おい
、能登守教経、生年二十六、いま世を辞す。さらばぞ」 いい終わるまで、二人の体を引っつるしたまま、金剛力こんごうりき
で踏みこられていた。そして、だだだと、二歩三歩、揉み歩いたかと思うと、舟べりを蹴って、それなり海中へ、どうっと躍りこんでしまった。 滝のような飛沫ひまつ
が立ち、それは一瞬の水泡と化け
し去った。それなり教経も安芸兄弟も、浮いては来ない。── ちょうどまた、潮時刻も、西流の急を最盛にしてい、夕せまる海峡の内は、人の作る阿鼻あび
叫喚きょうかん のあらしのほか、べつに海水の異様な底鳴りをも抱えて、世の春もよそに、業ごう
の大悲譜を奏かな でていた。
|