〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/17 (火) 海 豚 (二) 

みよし には、左馬頭行盛が立ち、とも には、内蔵頭信基がひかえていた。── 見わたすところ、 内大臣おおい殿との の乗船たるこの大船はまだ健在だった。
けれど、悲し風はひょうひょうと悲報を伝えて来る。人びとの死も伝えられ、たれかれの船もみすみす眼の前で一炬いっきょ となって沈んでいた。討死したり、入水したり、斬っつ斬られつのまま、舟もろとも、流れて行ったり、現世のこととも思われぬような水火の修羅しゅら が、彼の船をも取り巻いていた。 「・・・・やがて自分の番が来る」 宗盛は、戦慄せんりつ せずにはいられない。
彼は急に、そばにいた一少年、右衛門督   え  もんのかみ 清宗きよむね の小さい体を、抱き寄せて、
「右衛門督、こわ いか」
と、言った。
「いいえ」
少年の白い顔は、無知覚のようであった。ただ張りつめてい、くちびる は、むらさき色をしていた。
「かねて父も申しておいたことぞ。うろたえるな。父はここにいる」
「はい」
みぐる しゅうは果てまいぞ。父のそばをはぐ れな。今ごろは、そなたの母や弟らも、どれかの船で」
右衛門督は、やはり子どもであった。何を見たか、とつぜん父の手を離れて、舷側げんそく へ駈けて行き、
「あれっ、あのような物が流れて行く」
と、指さして叫んだ。
宗盛も起って、体をそこへ運んで行った。見れば、一聯いちれん絵屏風えびょうぶ が波に漂ってゆく。
ひも か、まつわ りついて行く布らしきいろ も透いて見えた。ほかの浪間へ眼をうつすと、遠方此方おちこち 、琴やら経机なども、浮きつ沈みつ、流れていた。
「さては、どこかで、女房船の一艘までが? ・・・・。ああ、これははや」
宗盛は、足が浮き、床几にも落ち着けなくなった。
「みかどの御船は?」
黄旗きばた のありかを、その眼はにわかに、探し求める。
横縞よこじま を描いた夕雲のうちにうすず きかけてい、春特有な靄気あいき と光をたたえて、なんとなく海上一面は模糊としていた。
黄旗きばた は。・・・・右衛門督よ、黄旗の御船は、どこに見ゆるぞ」
「父君。あれに」
「おお、まだ見ゆるか。なお、みかども、母の尼公も、おつつがないの。いっそ死ぬならば、御船へまいり、もろとも死のう。── 四郎兵衛しろうびょうえ 、四郎兵衛」
「はっ」
「この船、あれなる黄旗の御船のそばへやれ」
「にわかには、ちとむずかしゅう思われまする。いかんせん、間をへだてて、たくさんな源氏の船勢が、影をつらねて見えますゆえ」
「なんの、遠くをまわっても、行けぬはずはあるまい。かかるまに、東からも、あれ見よ、敵の一陣が近づきまいるわ。あれに襲わるるな、あの船勢に」
叫んでいる間に、宗盛は足の裏から、ずずずと りあげられ、とたんに、よろめきかけた。何か、異変だったに違いに。地震の家鳴やな りに似た響きが船体を揺すった。わあーっと、船じゅうの叫喚も一つに起こった。
遠くのみに気を取られていたすきに、源氏方の串崎舟か熊野舟のような軽艇が、いきなりこの大船のかじ舳先へさき を体当たりして来たのである。吃水下きっすいか の舵は砕かれたに違いない。ほふ られた巨鯨のように、船体の進行がにぶり、ぐるりとまわったことでも察しえられる。
たちまち下からは、東国武者の顔が幾つも、舷側げんそく をよじ、楯を躍り越えて、名乗り名乗り、斬り込んで来た。
船中の左馬頭行盛、内蔵頭くらのかみ 信基のぶもと兵部少輔ひょうぶのしょう 尹明まさあきら など、手の者と一つに、どっと、それへ駆け向かって、
「しゃっ、命知らずなけもの ども」
「一人一人、生けては帰さじ」
「思い知れ、積年のうらみ、平家にも人あることを」
血は響きをたて、金属は火を散らした。甲冑かっちゅう と甲冑との組み合いは怪獣の格闘に似、その咆哮ほうこう は、日ごろの人間の耳には覚えのないものであった。
「・・・・・・・」
宗盛は、うろたえの果て、右衛門督をかかえて、物蔭にすく んでしまった。そして 「かかる中に、門脇殿かどわきどの はどうしているか」 と、かなたの囲いの方をちらと振り向いた。そこには、凝然ぎょうぜん と、海づらに向かってたたず んでいる教盛のりもり の影が、四、五の郎党とともに見られた。彼の も黄旗をさがし、そこの安否を見守っているのであろうか。そしてこれ最後の永別と心に念じているように見える。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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