ほどなく、海の形相は、一変していた。 無数の生き物の貌
のように、海うな づらは、波紋の沸たぎ
りをふつふつ渦巻き始めている。潮鳴しおな
りであろうか。ごううっという音にもあらぬ音が、千尋せんじん
の底から海峡一面を震ゆり り動かしているかと疑われる。 両軍千余の船影は、そのころから、算さん
をみだして、散らばりだした。 海峡は狭い。だがなお、源平すべての船影と水面との比例は、いやその人間業ごう
の小ささは、一と抱えに足る落葉籠かご
を逆しまにして、空からぶり撒ま
いたほどな片々の物でしかない。 しかし、その一片一片の中に、人間の業苦ごうく
やら妄執もうしゅう やら、名利を生死に賭か
けた顔が無数に積まれてい、たけび合い、殺し合い、呪詛じゅそ
の風雲を呼び降ろしていた。 東から西へ、つまり、瀬戸内から玄海の外へ。 潮流は、午ひる
まえとは、逆な方向へ、動意をしめし、刻一刻、水面の傾斜を急にし始めて来たのである。 まず、平軍が行動の自由を欠き、その集合を突き崩されたのは言うまでもない。 同時に、待ち潮に乗った源氏が、俄然がぜん
、攻勢に転じたことも、もちろんである。かねて義経から、 「── 勝機は、その時」 と、夙つと
に、諸大将への心得にははいっている。 源氏か平家か。炎々と、焔ほのお
をあげて傾きかけている兵船も望まれる。 具足、腹巻まで脱ぎ捨ててただ身一つを、豊前の岸や、長門の磯へ向かって、からくも逃げ泳いで来る兵の影も、波間波間に、よく見れば見えもする。 ──
それかと思っていると、これは明らかに人間ではない。怪異な物の群れが、潮に乗って、泳いで来た。それの一群一群が、小さな波騒なみさい
の斑むら を描き、水の色までが変わって見えた。 何かとおもえば、海豚いるか
の大群であった。 はやくも人間の血の香を嗅か
いで、集まって来たのだろうか。屍肉しにく
を好む魚族でもないだろうに、気味の悪いことである。彼らは人間の戦争を面白がっているように見える。焼け船の爛ただ
れも、刃影や矢唸やうな りも、よそ事みたいに、遊び巡り、いつまでも影を消さなかった。 「四郎兵衛しろうびょうえ
。あれや何ぞ?」 宗盛は、眼をまろくして、つかの間、海づらに、怪訝けげん
な顔を奪と られた。 「海豚いるか
でございましょう。千、二千と群れ泳いでいるものとみえまする」 「ああ、海豚か。ならば珍しゅうもないが、おりもおり、かくもたくさんに寄ったのは見たこともない。これは平家にとって、吉か凶か」 「小博士こはかせ
ほどう申しますやら」 「そうだ、船には陰陽師晴信もおったの。晴信に卜うらな
わせん。景経、問うてまいれ」 かかる中とは思ったが、飛騨景景は、命のまま起こって行き、やがて、戻って来ると、いいにくそうに、床几へ向かって答えた。 「小博士は卦け
を勘かんが え、これなん平家の凶兆、お味方の軍いくさ
も危うからんと申しおりました」 「な、なに、凶兆といったか」 「いまは早や、お覚悟あってしかるびょう存じまする。景経も、お側にあり、いずこまでもおん供仕りますれば」 「・・・・・・」 返事をせず、宗盛は、急に船上を見まわしている。 蕭々しょうしょう
と、風が渡る。 かなたの一囲いには、門脇中納言教盛の床几もあった。 そこの人影は、寂として、声もない。 おそらくは、教盛も、今は味方の敗相をみとめ、観念したのであるまいか。 そして、算を乱した味方の群影の中に、能登守教経の乗船をその眼が探して
「── 教経やいかにせし?」 と、断末にせまる親心を、さまよわせているものではなかったか。 |