〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/14 (土) 海 豚 (一) 

ほどなく、海の形相は、一変していた。
無数の生き物のかお のように、うな づらは、波紋のたぎ りをふつふつ渦巻き始めている。潮鳴しおな りであろうか。ごううっという音にもあらぬ音が、千尋せんじん の底から海峡一面をゆり り動かしているかと疑われる。
両軍千余の船影は、そのころから、さん をみだして、散らばりだした。
海峡は狭い。だがなお、源平すべての船影と水面との比例は、いやその人間ごう の小ささは、一と抱えに足る落葉かご を逆しまにして、空からぶり いたほどな片々の物でしかない。
しかし、その一片一片の中に、人間の業苦ごうく やら妄執もうしゅう やら、名利を生死に けた顔が無数に積まれてい、たけび合い、殺し合い、呪詛じゅそ の風雲を呼び降ろしていた。
東から西へ、つまり、瀬戸内から玄海の外へ。
潮流は、ひる まえとは、逆な方向へ、動意をしめし、刻一刻、水面の傾斜を急にし始めて来たのである。
まず、平軍が行動の自由を欠き、その集合を突き崩されたのは言うまでもない。
同時に、待ち潮に乗った源氏が、俄然がぜん 、攻勢に転じたことも、もちろんである。かねて義経から、 「── 勝機は、その時」 と、つと に、諸大将への心得にははいっている。
源氏か平家か。炎々と、ほのお をあげて傾きかけている兵船も望まれる。
具足、腹巻まで脱ぎ捨ててただ身一つを、豊前の岸や、長門の磯へ向かって、からくも逃げ泳いで来る兵の影も、波間波間に、よく見れば見えもする。
── それかと思っていると、これは明らかに人間ではない。怪異な物の群れが、潮に乗って、泳いで来た。それの一群一群が、小さな波騒なみさいむら を描き、水の色までが変わって見えた。
何かとおもえば、海豚いるか の大群であった。
はやくも人間の血の香を いで、集まって来たのだろうか。屍肉しにく を好む魚族でもないだろうに、気味の悪いことである。彼らは人間の戦争を面白がっているように見える。焼け船のただ れも、刃影や矢唸やうな りも、よそ事みたいに、遊び巡り、いつまでも影を消さなかった。
四郎兵衛しろうびょうえ 。あれや何ぞ?」
宗盛は、眼をまろくして、つかの間、海づらに、怪訝けげん な顔を られた。
海豚いるか でございましょう。千、二千と群れ泳いでいるものとみえまする」
「ああ、海豚か。ならば珍しゅうもないが、おりもおり、かくもたくさんに寄ったのは見たこともない。これは平家にとって、吉か凶か」
小博士こはかせ ほどう申しますやら」
「そうだ、船には陰陽師晴信もおったの。晴信にうらな わせん。景経、問うてまいれ」
かかる中とは思ったが、飛騨景景は、命のまま起こって行き、やがて、戻って来ると、いいにくそうに、床几へ向かって答えた。
「小博士はかんが え、これなん平家の凶兆、お味方のいくさ も危うからんと申しおりました」
「な、なに、凶兆といったか」
「いまは早や、お覚悟あってしかるびょう存じまする。景経も、お側にあり、いずこまでもおん供仕りますれば」
「・・・・・・」
返事をせず、宗盛は、急に船上を見まわしている。
蕭々しょうしょう と、風が渡る。
かなたの一囲いには、門脇中納言教盛の床几もあった。
そこの人影は、寂として、声もない。
おそらくは、教盛も、今は味方の敗相をみとめ、観念したのであるまいか。
そして、算を乱した味方の群影の中に、能登守教経の乗船をその眼が探して 「── 教経やいかにせし?」 と、断末にせまる親心を、さまよわせているものではなかったか。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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