時忠の筆である。 わずか数行の走り書きだが、時忠の焦躁
が、おおいようもなく筆に出ていた。 時忠の待つ 「海上よりの秘事の使い」 というのは、彼の妻帥そつ
ノ局つぼね からの、なんらかの便りがある手はずになっていることらしい。 朝から待ったが、妻の便りはいまだにない。何かの障さわ
りで、手はずが破れたものと分かれば、別の案に出る所存はある。しかし百難を排してでも、沖なる妻からの首尾は、きっと、あるものと信じられる。 ひとまず、武蔵坊は返すが、なお陽は高いし、かつ海上の軍いくさ
も乱れ立てば、連絡も一ばい、たやすくなろう。それにまた、薄暮のころこそ、すべてに都合がよいかもしれぬ。 ただ、八方の船々に、眼を怠らせ給うな。後刻かならず、何かの変を見給うべし。時忠も今宵までにはやがて拝参はいざん
、諸事ここ数刻のうち。── というような意味のものであった。充分な含みも辞句短みじか
なうちに読み取れた。 「待て弁慶。再び、行くには及ぶまい」 「はっ。とは申せ、不覚ないたしまいて」 「いや、しばし様子を見よう。そちが赤間ヶ関へ漕こ
ぐまでには、いかなる変を見るやも知れぬ。それにまた、大納言どの父子には、行きちごうて、はや陸くが
にはおいでない場合も考えられる」 「では、御憂慮のことには、弁慶、いかに努めたらよろしゅうございましょうか。お指図を下し給わりませ」 「おう、そこにいて、ひたすら平家の船勢を四方より見まもり、いささかでも、いぶかしき変を見たらすぐ告げよ」 「あれなる巨きな唐船は、そのお座船と違いまするか」 「笑止よ。あれはわが眼をくらまさんための偽計の船。みかども神器も載せてはいぬ、と義経は観み
た。・・・・おそらく他の雑船ぞうせん
の群れに紛まぎ れておわすものと思われる。大納言どのが内室よりの知らせを待つのもそのことに相違ない。義経が求めるのもそれ一つぞ。わかったか」 「心得まいた」 弁慶は緊張に膨ふく
れ、五体の精気を視力に集めて、やぐらの一角に、手の大薙刀と並んで立った。 こうして、義経の床几を繞めぐ
るここでのことも、時間にすれば、それは極わずかな経過でしかない。 その間といえ、間断なく、船自体は戦い戦い、縦横な航跡を両軍の間に描いていたのである。
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