〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/14 (土)  ばた ま ぎ れ (四) 

時忠の筆である。
わずか数行の走り書きだが、時忠の焦躁しょうそう が、おおいようもなく筆に出ていた。
時忠の待つ 「海上よりの秘事の使い」 というのは、彼の妻そつつぼね からの、なんらかの便りがある手はずになっていることらしい。
朝から待ったが、妻の便りはいまだにない。何かのさわ りで、手はずが破れたものと分かれば、別の案に出る所存はある。しかし百難を排してでも、沖なる妻からの首尾は、きっと、あるものと信じられる。
ひとまず、武蔵坊は返すが、なお陽は高いし、かつ海上のいくさ も乱れ立てば、連絡も一ばい、たやすくなろう。それにまた、薄暮のころこそ、すべてに都合がよいかもしれぬ。
ただ、八方の船々に、眼を怠らせ給うな。後刻かならず、何かの変を見給うべし。時忠も今宵までにはやがて拝参はいざん 、諸事ここ数刻のうち。── というような意味のものであった。充分な含みも辞句みじか なうちに読み取れた。
「待て弁慶。再び、行くには及ぶまい」
「はっ。とは申せ、不覚ないたしまいて」
「いや、しばし様子を見よう。そちが赤間ヶ関へ ぐまでには、いかなる変を見るやも知れぬ。それにまた、大納言どの父子には、行きちごうて、はやくが にはおいでない場合も考えられる」
「では、御憂慮のことには、弁慶、いかに努めたらよろしゅうございましょうか。お指図を下し給わりませ」
「おう、そこにいて、ひたすら平家の船勢を四方より見まもり、いささかでも、いぶかしき変を見たらすぐ告げよ」
「あれなる巨きな唐船は、そのお座船と違いまするか」
「笑止よ。あれはわが眼をくらまさんための偽計の船。みかども神器も載せてはいぬ、と義経は た。・・・・おそらく他の雑船ぞうせん の群れにまぎ れておわすものと思われる。大納言どのが内室よりの知らせを待つのもそのことに相違ない。義経が求めるのもそれ一つぞ。わかったか」
「心得まいた」
弁慶は緊張にふく れ、五体の精気を視力に集めて、やぐらの一角に、手の大薙刀と並んで立った。
こうして、義経の床几をめぐ るここでのことも、時間にすれば、それは極わずかな経過でしかない。
その間といえ、間断なく、船自体は戦い戦い、縦横な航跡を両軍の間に描いていたのである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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