〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/14 (土)  ばた ま ぎ れ (三) 

「弁慶、ただ今、立ち帰りてござりまする」
義経の前に、彼はさそおく、今暁からの復命を述べていた。
「仰せ付けにまかせ、あれより陸路を赤間ケ関へ急ぎ、讃岐どの (時実) をば父時忠のきみ のおん許まで、送り届けまいらせました。そしてすぐにも、立ち帰らんと存じましたところ、時忠のきみ が仰せには、沖なる船より、やがて秘事の使いあれば、判官殿へよき土産にせよとのことに、それ待ち待ち、御合戦をながめながら、つい、かくのごとく せ遅れました。なんとも面目次第がございませぬ」
弁慶の容子から察しると、彼の言っている主意は、みすみす眼の前で行われつつある船戦に帰り遅れたという自責やら残念さにあるらしい。
だが、義経が、一弁慶の戦力などたの みに待っているはずはなかった。 「── もしや、弁慶が戻りなば?」 と、待ったとすれば、それは、平大納言時忠からの、なんらか機密の連絡以外のものではあるまい。
みかどの玉体と、賢所かしこどころ の神器とを、この乱軍の内から、どう救出するか。平大納言の胸にあるはずの、その秘策を、一刻も早く知りたかったに違いないのだ。
「して、いかがしたか。それから先は」
「されば、いざ帰らんと、急ぎましたものの、赤間ヶ関の岸辺には、舟影だに見当たらず、やっとのことで、形ばかりの小舟一艘を拾い、無二無三、平家の中を ぎ縫うて戻りましたような仕儀で」
「待て。そちの帰陣の遅し早しなどを問うてはいない。大納言どのが申されし、沖より秘事の使いがあるはず ── という、その使いはあったのか、なかったのか」
「待てど暮せど、海上よりの使いとやらは、ついに、見えもいたしませなんだ」
「来なかったのか」
「はい」
「いや。さはなくして、来るを待ちきれず、ただ合戦に心を急かれ、身勝手に、帰りを急いだような仔細しさい ではないのか」
「決して、さる所存ではおざらねど、かかる間に、戦終わらば、同陣の友輩ともばら にも、どの面下げて会われましょうや、ここ千載せんざい一期/rb>いちご 、むなしくいてはと、しきりに申しましたゆえ」
「それみよ、弁慶。なぜ帰った」
「はっ。・・・・でも、それがしの心根を不愍/rb>ふびん がられ、さまで申すなれば立ち帰れ。沖の使いあらば、べつに思案して、判官どのへ通じまいらせん。弁慶行け ── と時忠の卿/rb>きみ より、み許しもございましたので」
「さても、武勇のみにて、思慮には浅き男かな」
義経は舌打ちして、
「戦はすでに、勝ったるも同然なれ。また、勝ったればとて、もし神器の行方むなしからば、事すべて水泡/rb>すいほう たらん。なんじは、薄々ながらも、大納言どの父子が、密かに敵の裏より、それの無事を計って、義経に一臂いっぴ の力を添えんとする密約も存じおりながら、なんで秘事の使いを待って吉左右をこれへ持ち帰らざりしぞ。そちもまた、ただ戦場の勇のみを思い、武功の争いにはや るだけの男か。ああ、匹夫ひっぷ よな」
いまいましげに義経は叱った。
戦いは、たけなわである。全面の激戦がながめられる。この様相では、勝敗いずれかすら、たれにも判断はついていまい。── が、義経の関心の焦点は、それから先のものだった。年来、股肱ここう の臣としている弁慶ではあり、それだけに、一そう腹だ立つらしい。
「・・・・・・」
弁慶は、ひたと両手をついて、しお れてしまった。
そうだったと、しんから思う。言われた通り、匹夫で、武骨一辺で、ただ勇を振るってみたい量見からの智恵のなさであったと、自分でも痛感する。
「おしかりの儀、この愚鈍にも、きっと、こたえ申してござる」
やや、おろおろ声の弁慶だった。自分を情けない者と思ったことかも知れない。
「すぐさま、赤間ヶ関へ引っ返して行き、殿の惜しみ給う秘事の便りを待って、再度、時忠のきみ より、何かのしめ し合わせを伺うて戻りまする」
彼はすぐ起ちかけた。そして、そのしお に、腹巻のわきから一書を取り出して、義経にささげた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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