〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/13 (金)  ばた ま ぎ れ (二) 

義経は くから、渡辺ノ津以来の渡辺わたなべ むつる をして、松浦党を誘っていたもののようである。── が、水軍の行動には複雑なものがあり、一党中の異議もあってjか、この真際まで、答えがなかったものだった。
が、それも急に呼応となった。
さきには、彦島から原田種直が国へ去り、今また、松浦党が降った。筑紫諸党の全面的な崩れも、もう時を待つまでもない。
そのうえ、四国の阿波民部も、すでに源軍の一翼に加わって、ほこ を逆しまに、平家へ弓を引いている。
しかも今の満潮時が過ぎて、すぐ次に来る潮向きは、いよいよ源軍を有利にしよう。
その一天機から、平家は、逆潮不利にも ち、二重三重の苦戦をしなければならなくなる。
かくも源氏側には今、時と人と地の利と、三拍子の好条件が揃ってきた。けれどまだ微かな安心感も義経は持っていないようだった。たえず戦況へ気をくばり、また、雨雲の乱れにも似る敵の船列へ眼を転じていた。
「時に、松浦党の使いにたず ねるが」
「はっ」
「そも、みかどの御座ござ ある御船は、どれぞ? 知るなれば、正しく教えてほしい。いかなる功よりは重き功として、義経よりも鎌倉どのへ申しすす めん。おこと らは知らざるか」
「申すまでもなく、日月のばん の見ゆる、あの唐船と心得おりますが」
「ちがう」
義経は、びしっと言い切り、そのことには、口をとじた。
根ほり葉ほりは無用とさと ったものだろう。平家たりとて、それほどな秘計を、不用意に行うはずはない。平家内でも極く少数な主脳だけの知る計らいと、すぐ合点されたからである。
松浦党の二将は、ただちに自陣へ引っ返した。むつる はとまどった。そして、乱箭らんせん の下を ぎ帰って行く小艇の影を見送っていると、また、一艘の小舟が舷側げんそく の下に漂い着き、
「おういっ、なわ を投げろ。縄なと投げてよこせ」
と、わめ きかけた。
櫓柄ろづか っているのは、大きな法師武者であり、ほかにはたれも乗っていない。
「や。武蔵坊どの」
眤が投げた縄の端は、とっさに弁慶の片方の手につかまれた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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