〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/10 (火) か ら ふ ね あば れ (二)

「さは くより阿波民部は、平家を見切って、心を源氏に寄せていたか」
権中納言知盛は、じんと眼の底に熱さを覚えた。
「── さしも、亡き入道殿 (清盛) のお目にかけられし人なれど、われら入道殿の子らには、彼らをつなぎおく器量もなく情も持たず、なべて、不徳者なれば、ぜひもあらじ・・・・。 わけて、民部の弟、桜間ノ介なる者、 内大臣おおい殿との よりはずかし められ、屋島以来、姿をまぎらし、敵味方の間を、ひそ かに、往来していたとか聞く。── おそらくは、弟の誘いに、動かされてのことでやあらん。ああ、是非なし、是非なし」
き返る味方の動揺をよそに、彼のみは、ふと、父清盛の大きな力を思い返していた。
が、すぐその眸も心も、
黄旗きばた の御船は?」
と、たえず気がかりとしている船影の方へ転じていた。そしてひとり、こうつぶやいた。
「おお。・・・・まだ、おつつがない。おつつがない」
黄旗を見るたび、彼の眼は、人知れぬものに、すぐうるんだ。じっと、祈るが如きひとみ になる。
とはいえ、全軍の指揮に、意気を失っているような知盛ではもちろんない。
つねに大処たいしょ から兵機は見ていた。
鬼神のような半身をやぐら から乗り出して、しばしば、叱咤しった に声も らすのだった。そしてその寸隙すんげきあらし の小やみのような息づきの間に ── ふと見られる知盛の人間そのままな心のたゆたいなのであった。
みかどや女院。
また、母なる二位ノ尼どのやら。
さらには、妻や、幼い子らや。
さまざまなきずな の者が、心の中で、彼の後ろ髪を引いているのであろう。
それを、心で振り切り振り切り、知盛は自身を戦いへ向けていた。
阿波民部も一角の豹変ひょうへん は、全軍の狂濤きょうとう を起こした。知盛の中軍すらも、収拾のつかぬ混乱に落ちている。船戦ふないくさなら い、こうなっては、処置もなかった。一令よく百船をぎょ すというわけにはゆかない。── 敵の源氏も、その結集を解き、自由な突進へ移って来たらしいが ── 彼もまた、そうするしかないのを知った。
「なおまだ、ここ半刻はんとき は、五分と五分の戦い」
ここしばし、みなぎ りきっている満々たる海づらをながめながら、彼は思う。
西へも東へも動きのない満潮時は、およそ半刻ほどこのまま持続しよう。源平いずれの、利でもなし、不利でもない。
戦場の条件は五分だ。四国勢の寝返りも、源平の船数を、ほぼ同数なものとしただけのことである。── 何を恐れてと、味方のみだれが、不甲斐なく見える。
── が、彼にも、危惧きぐ はある。
あと、小半刻こはんとき もたつと、この潮は、せい からどう へ、逆な流れを起こし、たちまち、平家にとっては致命的な逆潮さかしお となることだった。
「今のうちこそ」
と、それへのあせりと、
「ここ半刻の戦いに、九郎義経に出会い、義経の首を挙げ得ずば・・・・」
と、しきりに、一挙いっきょ の決戦を果たそうとする気構えとの、もだえであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next