「さは疾
くより阿波民部は、平家を見切って、心を源氏に寄せていたか」 権中納言知盛は、じんと眼の底に熱さを覚えた。 「── さしも、亡き入道殿 (清盛)
のお目にかけられし人なれど、われら入道殿の子らには、彼らをつなぎおく器量もなく情も持たず、なべて、不徳者なれば、ぜひもあらじ・・・・。 わけて、民部の弟、桜間ノ介なる者、
内大臣おおい の殿との
より辱はずかし められ、屋島以来、姿をまぎらし、敵味方の間を、密ひそ
かに、往来していたとか聞く。── おそらくは、弟の誘いに、動かされてのことでやあらん。ああ、是非なし、是非なし」 沸わ
き返る味方の動揺をよそに、彼のみは、ふと、父清盛の大きな力を思い返していた。 が、すぐその眸も心も、 「黄旗きばた
の御船は?」 と、たえず気がかりとしている船影の方へ転じていた。そしてひとり、こうつぶやいた。 「おお。・・・・まだ、おつつがない。おつつがない」 黄旗を見るたび、彼の眼は、人知れぬものに、すぐうるんだ。じっと、祈るが如き眸ひとみ
になる。 とはいえ、全軍の指揮に、意気を失っているような知盛ではもちろんない。 つねに大処たいしょ
から兵機は見ていた。 鬼神のような半身を櫓やぐら
から乗り出して、しばしば、叱咤しった
に声も嗄か らすのだった。そしてその寸隙すんげき
、嵐あらし の小やみのような息づきの間に
── ふと見られる知盛の人間そのままな心のたゆたいなのであった。 みかどや女院。 また、母なる二位ノ尼どのやら。 さらには、妻や、幼い子らや。 さまざまな絆きずな
の者が、心の中で、彼の後ろ髪を引いているのであろう。 それを、心で振り切り振り切り、知盛は自身を戦いへ向けていた。 阿波民部も一角の豹変ひょうへん
は、全軍の狂濤きょうとう を起こした。知盛の中軍すらも、収拾のつかぬ混乱に落ちている。船戦ふないくさ
の慣なら い、こうなっては、処置もなかった。一令よく百船を御ぎょ
すというわけにはゆかない。── 敵の源氏も、その結集を解き、自由な突進へ移って来たらしいが ── 彼もまた、そうするしかないのを知った。 「なおまだ、ここ半刻はんとき
は、五分と五分の戦い」 ここしばし、漲みなぎ
りきっている満々たる海づらをながめながら、彼は思う。 西へも東へも動きのない満潮時は、およそ半刻ほどこのまま持続しよう。源平いずれの、利でもなし、不利でもない。 戦場の条件は五分だ。四国勢の寝返りも、源平の船数を、ほぼ同数なものとしただけのことである。──
何を恐れてと、味方のみだれが、不甲斐なく見える。 ── が、彼にも、危惧きぐ
はある。 あと、小半刻こはんとき
もたつと、この潮は、静せい から動どう
へ、逆な流れを起こし、たちまち、平家にとっては致命的な逆潮さかしお
となることだった。 「今のうちこそ」 と、それへのあせりと、 「ここ半刻の戦いに、九郎義経に出会い、義経の首を挙げ得ずば・・・・」 と、しきりに、一挙いっきょ
の決戦を果たそうとする気構えとの、もだえであった。 |