〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/10 (火) か ら ふ ね あば れ (一)

「見よ、殿輩とのばら
義経は、そこの高い所から、船上の武者へ、大声で、
「時刻も早や待ちに待ったるひつじ下刻げこく 。潮の落勢は み、みずうみ にも似るみなぎ りとはなったるぞ。・・・・いざ、敵へ向かって、思うさまいくさ かけよ」
と、きびきび命じた。
檣頭しょうとう の小旗命令が、全軍へも示された。
同時に、とうとうと、攻め鼓が鳴り、がね の響きが、波を逆巻いた。
およそ源氏勢の一艘一艘からそれは起こった。まったく、意気を新たにした武者声でもあった。 「かかれ、かかれ。思うさまいくさ せよ」 という総懸りの令である。海を行く悍馬かんば が一せいに手綱を放たれた勢いそのままであった。
先陣を競わば、先陣を切れ、奇功を思うて、敵の中へ深く潛まんとする者は、ただ深く突き進め。
乱打らんだ する旗艦の急鉦きゅうがね は、各船の将に対して、意のままな戦闘と、功名漁りの自由を解放し、それを励まし、むち 打つごとく、鳴っていた。
いや、義経自身も、ただ、将座に って、戦をながめてなどいない。
彼もまた、一戦士となって、敵中へ獲物を求めて、突き進んで行くらしい。
彼の大船は、串崎の南から、急旋回きゅうせんかい を起こして、豊前岸を左に、退陣のさいとは逆に、大きく、北へ向かって半円形を、えがき出した。
途中。── その旋回行動中に。
内応した阿波民部の四国船団が、彼の驥尾きび についた。
そのうち、主船のやぐらに、阿波民部と、弟の桜間ノ介とが、姿を並べて立っている。
「・・・・・・」
声は届きようもないが、こなたの義経と、遠く相見て、ほほ笑み合ったかのようであった。
このとき、海峡の潮は、西へも東へも、揺るぎすら忘れた。不気味なほど、海面はひそまり満ち、豊前の沿岸も、壇ノ浦一帯の岸の根も、水位はずんと高くなり、山々は低く見えた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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