〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/10 (火)  けん ざん (三)

源氏は苦戦だった。
すでに串崎の長汀ちょうてい に沿い、その戦列も細長く乱れ行き、ある部分では、早くも寸断されかけている。
背水の陣ならぬ、背陸の陣に、源氏の船はみなおかれた。
待ったなしの決戦を、今は余儀なくされた形である。凄愴せいそう の気、何にたとえようもない。 “受け” に立つことも出来ず、退くこともゆるされなかった。なぜなら、串崎の南の沖には、平軍の右翼と見える約七、八十隻が早くも先へまわっている。それが徐々に、源氏の退き口を断ちかけていた。
── こう見まわせば、完全に、源氏は敵の大きな包囲環の中にあった。そして、その内の一船上に、義経の姿もあった。依然、司令塔上の彼の影だけは、変わりがない。その双眸そうぼう は、何を思うか、この事態に追い込まれても、なおらんとして、澄みきっていた。
「忠信」
「はつ」
桜間さくらますけ を、呼べ。これへと申せ」
「心得まいた」
忠信が駆け降りて行く。と、すぐ彼に伴われて、半首はつぶり をつけた桜間さくらますけ 能遠よしとう が、やぐら ばしごを、登って来、
「── おん前に」
と、ひざまずいた。
今暁、讃岐中将時実とともに、義経を訪い、時実は帰ったが、彼のみは、船中にとどまっていたのである。
すけ か、あれ見よ。串崎の南の沖を。── わが行く手に現れて、先を断つが如き構えを取った平家方の七、八十艘」
「それがしも今、あれはいかにと、疑うていたおりでございました」
其許そこもと のすすめを容れ、内応の約を誓うた阿波民部の船手とは違うか」
「兄民部のそれkじゃ否か、なおしばし、見ておらねば?」
「いやいや、味方の後方は、敵に追いつかれて、苦戦に見ゆるぞ。── 待つは、もどかしい。一刻も早く、あれ確かめたいが」
「では、串崎舟一艘を、それがしにお貸し給わりませ。追い潮に乗って、あれへ ぎ寄せ、もし兄民部の同勢なれば、すぐ合図仕りまする」
「よし。早く参れ」
それから、すぐであった。
串崎舟は、義経の旗艦を離れて、南へ向かった。まだ落潮の余勢はかなり急とみえ、そのはや い影は、一葉いちよう の行方に似ていた。
そして、またたく間に、それはかなたの船群に近づいた様子である。しかし、なんのへん もあらわれない。
「・・・・?」
義経は、凝視した。多少の不安を眉に。
するとやがて。── かなたの七、八十隻の上に見えた紅の旗は、源氏の白旗に変えられた。
「おお、さてはやはり、阿波一党の船手であったか。四国の阿波勢こそは、平家の列を脱し、今よりは、源氏の味方となったるぞ」
義経が、告げ渡すまでもなく、源氏の総勢は、わああっと、諸声もろごえ をあげた。── 瞬間は眼を疑ったが、疑いもなき四国勢の反応と知って、踊らんばかりよろこ んだ。
だが。
一瞬の平軍の上には、声もない悲風が吹いて通った。
おそらくは、そこの人びとこそ、眼を疑って、仰天したことだろう。
みな愕然がくぜん と、色を失い、怒りを、 にこめて 「今の今まで、阿波民部めを、さる人非人ひとでなし ともつゆ思わず、山賀、松浦党などとともに、一方の大将を任したるこそ口惜しけれ」 と、足摺あしずり してののしり合ったに相違ない。
が、なんといおうと、様相はもう逆転していた。
四国勢の寝返りばかりでなく、筑紫党の船群の中でも、同時に何事かが起こっているらしい。
また、源軍の尾端にからんで、追撃に追撃を加えていた平家の左翼や中軍も例外ではなかった。無慮六百余隻の船影が、棒でかきまわされた池水の落花にも似た渦をえがき始めている。思い思いなうろたえと、統御を欠いた行動には、早くも混乱のきざ しが見え、帰するところもない有様だった。
「こはそも何事? 人為じんいへん か、天変てんぺん か?」
一つ一つの、平家方の船上こそまた、思いやられる。
平家人へいけびと 自体にさえ、何が何なのか、わけが分からない狂噪きょうそう を周囲に見たことだろう。そして疑う身も、つい狼狽ろうばい の波に巻かれて、いよいよその無統御を大きくしたいたにちがいない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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