〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/09 (月)  けん ざん (二)

「や、や。東国武者の中にも、さすが腕ぶしの弓取りもいるないはいるわ。船屋形の角柱すみばしら へ、篦深のぶか に立ったるこの矢を見よ。この敵の矢を」
今、眼を丸くせんばかりに、兵どもが下で騒ぎ合っている様子を見、知盛は、やぐら 越しに、下をのぞいて言った。
光李みつすえ 。その矢を抜いて、これへ見せよ」
「はっ、御覧ごろう じなされますか」
紀ノ光李は、すぐ矢を引き抜いて、知盛の前へ持って来た。
知盛が手に取ってみると。
こう羽根はね いだ白篦しらの (色付けせぬ生地きじ矢柄やがら ) の矢に、漆書うるしが きの細字で、“和田小太郎義盛” ろしてあった。
当時の風習として、持ち矢すべてに署名したわけではないが、強弓の士は、おのおの、幾筋かの記名矢を背のえびら に持っていた。
そして序戦の矢合わせに、 「── わが腕のほどを見よ」 と誇って射たのである。
このことを、当時の武者は “矢見参やげんざん ” ともとな えて、自己の記名矢は、自己の分身のように大切にした。だから、目標を射外いはず しなどして、その矢で、敵が射返して来、自分の矢で自陣の損害を受けたりすると、物笑いの種にされた。
「さても、めずらしき人の矢見参かな、鎌倉の和田小太郎ともいわるる武者の矢にこた えもせぬはひる みといわれん。たれかこの矢を、和田の陣へ、返報してやる者はないか」
知盛のことばに、光李が、
「ならば、伊予国の住人、仁井にいの 紀四郎きしろう へその矢を賜わりませ。紀四郎なれば、致しましょう」
選ばれた射手いて紀四郎きしろう 親清ちかきよ は、和田の矢を賜わって、海面三町余を射渡し、和田の騎馬陣に、わっというこた えをわかせた。
矢は、和田の後ろにいた石田左近太郎のひじ に見事立ったのだ。左近太郎は馬から落ちた、近くにいた東国勢は 「あな笑止。あな憎や。和田が粗忽そこつ な矢見参して、つまらに恥をかきぬるわ」 と、口々に言ったので、小太郎義盛は、いたたまれなくなったものか、一陣、ほかのなぎさ へ駆け去って、舟を求め出した。海上へ戦い出て、恥をそそごうの所存らしい。
このさい、同様な矢見参は、諸所でも見られた。
義経の身辺へも、平家方から、白篦しらの の大矢が飛んできた。
漆書うるしが きを見ると “仁井紀四郎親清” とある。
義経はその矢を、たれに与えたものかと、後藤兵衛ごとうひょうえ 実基さねもと に訊ねた。やがて船中の一士、甲斐源氏の浅利与市あさりのよいち が選ばれた。
この浅利与市は、走る鹿しか も射損じたことがないと言われ、一名を走鹿与市はしかのよいちとも呼ばれていた。
彼は賜わった矢をつがえ、ねらはず さず、敵の一船上に見える仁井紀四郎を一矢で射止めた。
わあっと、味方の喝采かっさい がわく。敵の色なきどよめきも、ながめられる。
興亡いずれかの土壇場どたんば へ来て、矢見参の応酬おうしゅう など、ちと悠長ゆうちょう な感もあるが、戦争の遂行にも、時代の型と、約束があった。
個々の武者気質かたぎ は、軍の協同的な精神よりは、個人の名を重しとしていた風がある。敵と闘う以上にも味方同士の名誉争いがひどかった。陣名乗りはいうに及ばず、所持の矢柄にまでわが名を書くような風習も、自然、そこから生じたのである。
しかし矢通しの、矢見参などは、まだ距離がある間のことで、やがて、敵味方相互の顔も見え出し、わめきの意味も聞き取れるほど、舷々げんげん 接し合って来ると、もう乱箭らんせん 乱射、めちゃめちゃな矢交ぜと化してしまうのだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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