〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/09 (月)  けん ざん (一)

主戦場は海上だが、一部の陸地も、当然、戦場の範囲に入っている。陸では陸の、微妙な動きやら陰の闘いもあったのはいうまでもない。
赤間の臨海館のあと へ、前夜から身をひそ めている平大納言時忠。また夜半過ぎ、串崎の北磯から、武蔵坊弁慶に送られて、義経の誓書をたずさ え、父時忠の許へ、急ぎに急いで行った讃岐中納言時実なども、どうしたことか。
おなじ臨海館址の古建物の一つには、朱鼻あけはな伴卜ばんぼく なる怪物、欧州の吉次という妖商ようしょう 、その二人がもぐ っているらしい気配もあった。
そのほか、町屋の諸所、山野のいたる所に、姿こそ見せないが、戦わぬ庶民も、その日の海上を、かたずをのむ思いで、ながめあっていたことだろう。とにかく、平家の紅旗は、昨夜以来、赤間ヶ関一帯の陸上から影を消していた。ことごとく、今日の海戦に出たものと思われる。
そして、今日の埠頭ふとう から壇ノ浦や串崎の磯松原だの漁村の屋根越しに、ひらめき見える旗幟はたのぼり は、すべて源氏のしるし だった。火ノ山の上に望まれるのも、白旗だった。
今壇ノ浦の辺を、一群の騎馬が、東へ駈けて行くのが見える。
「すわ、船手の味方危うし」
と、源氏の騎馬勢は陸上で気を揉み、口々に、
「敵の船勢ふなぜい が、わが水軍を串崎に追いつめ、三方より殲滅みなごろし を計る気色ぞ」
と、叫んでいた。で、当然な加勢を思い、おのおの、掩護えんご に駆け集まったものらしい。
だが、川などと違い、海ではあるし、烈しいうしお 、馬を乗り入れての加勢など、思いも寄らない。
ただ、波際に馬を立て、弓を弓手ゆんで にして 「── 近くこそ寄れ、ひと泡吹かせん」 と、海上の敵を、睨まえているだけだった。
その中には、金子十郎、和田義盛、鎌田正近、畠山重忠、片岡為春など、かぶと眉廂まびさし 深く、そうまなこ ぎすまして、うつつもなき顔も見える。
そのうちに、」彼らはまた、どどどどっと、外浦とうら の方へ二町ほど、先を争って駆けなだれた。
平家の左翼か、中軍の船勢か、どっちかであったろう。平家方の三段の陣も、ここへ来ては、見分けもつかぬほど、包囲の翼をせばめ、岸へも、源氏の船へも、接近していた。
「それっ」
とばかり陸の源氏が駆け出したのも、敵の船隊が、近々と、外浦の岸へ接して来たのを見たからだった。おのおの、つる を争い張って、「── 得たり! 矢ごろぞ」 と、なぎざ から敵の船目がけて、びゅんびゅん、射出した。
海面での視覚は陸の目測とだいぶ違う。思いのほか距離があった。矢の多くはむなしく落ち、浪間のちり と浮いて流れて行く。平家はこれを見て、
「あな、笑止」
と、どよめき笑い、
「小ざかしきくが の東国武者どもに、潮かぜの中の強矢つよや はこう射るものと、眼に見せてくれんず」
船々のともへ 舳に、平家は強弓の士をそろえて、一せいな矢響きを応酬し出した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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