まぶしげに、義経は、凝視の顔を、西方へ向けていた。 海面は、ぎらぎら揺れ、しかと、眸
にとらえ難い。 朝には、平家方が視覚に悩んだ、陽が傾くにつれ、それは逆になってくる。 「・・・・来たか」 義経は、つぶやいたきりである。 下で待つ郎党どもの顔へ、一語の令もまだ発しない。 いや、令を待つ者は、この一船上だけでない。 舵かじ
を転てん じて、迎え討つ態勢へ移るのか、あるいは、他に何か策を取るのか、総勢の船も今、令の合図を、待ちぬいていよう。 が、義経は容易に断だん
を下しかねている風だった。のみならず、なんの逡巡しゅんじゅん
か、舷側げんそく を洗って行く直下に波間をのぞき込んだ。いつまでもそうしていた。 「忠信。大八郎」 「はっ」 「そのほかの者も、これへ来て、おのおのの軍扇を波間へ投げよ、投げてみよ」 なんのためか、彼らは怪しんだ。 ──
が、いわるるまま、各自その一扇いっせん
一扇いっせん を開いては、波へ向かって投げた。義経は、潮の乗って流れ去る一扇を波の果てに見送っては、また次の一扇の行方を見ていた。そして、 「おう、潮しお
あしは、いつか刻々と緩ゆる やかになっておる。さてこそ、敵の権中納言も、機を外はず
してはと、焦心あせ って来たはず」 果然、彼の声の裏には、何か確信がこもっていた。彼は即座に、令を下した。 「──
総勢はなお退陣をつづけよ。敵を誘いなざ
い誘いなざ い、串崎と満珠まんじゅ
の沖あたりまでも遠く退さ がれ」
号令の意味が全部の船上にゆきわたったころ、平軍は早やその全能力を挙げて、追い潮の利に乗じつつ近々と迫っていた。 偉容堂々たる唐船からぶね
数隻がその中心であった。数も源氏がたよりやや多く、堅牢けんろう
な舟艇と、船型の大きな点なども、概して、平家の方が優位であった。 それになお平家の立場は、追い潮のうえに、順風の利を占めている。ただし追い潮は、あと半刻はんとき
(一時間) までの間でしかない。未ひつじ
ノ下刻げこく (午後三時)
ともなれば、この落潮はぴったり休や
み、満潮時の平静を見せながら、やがて今度は、逆流に変わる。 義経が待つものは、それが逆流に転じる時だった。 それなのに、無謀な攻撃を、午うま
ノ刻こく から開始したのは、なぜなのか。 思うに、時や潮合いを計っていれば、平家方も
「さは、させじ」 と、それ以前に、猛攻撃を起こしてくるからであったろう。 その場合は、絶対的な不利におかれる。どう逃げかわしても、味方の壊滅か大損傷はめぬがれ難い。未ひつじ
ノ下刻げこく といえば、長い春の日とて間もなく暮れよう。薄暮のころが、源氏にとって最良な時刻なのだ。それまでの維持もおぼつかない。如し
かず、我から彼へぶつかってゆき、能あと
うかぎり、時を稼かせ ぎ、敵を誇らせ、いわゆる
“紛まぎ れ” の戦法をとって、時来たらば、反転せん
── というのが彼の真意であったとみえる。 では、知盛の腹はどうか。 いうまでもなく、知盛は義経がのぞんでいることをの反対を望んでいる。 しかし、さすがの彼も、義経の悪条件を無視した逆戦法には意表を突かれた。そのため、我から攻撃に出るべき大切な時機を失ったかたちでもある。勝利には見えても、決定打とはならない戦に、むなしく幾刻いくとき
かを空費した憾うら みは多い。 ──
で、猛然と、追撃をかけたのだった。 今、この潮のまに、完膚かんぷ
なきまで敵をたたき潰つぶ さなくて、いつ天与の時があろうか。 「──
一ノ谷、屋島の汚名をそそぐは今なるぞ。者ども、奮ふる
えよ。積年の恨事、今こそ東国武者に思い知らせよ」 と、知盛のいる大櫓おおやぐら
でも、能登守教経の立つ唐船からぶね
の上でも、声をからしているであろう形相と叱咤しった
が、眼に見えるようであった。 追撃陣は、三段に分れ、右翼は豊前寄りを、左翼は長門側から南下し、中央の主力は、やや凹くぼ
み形に遅れて、六百余艘、鶴翼かくよく
をなしていた。── つまり三面包囲の形である。 源氏の長い船影の先は、すでに串崎の突端あたりまで、漂う芥あくた
のように押し流されていた。これを見れば、たれしも 「あなや、源氏危うし」 の感なきを得なかったろう。おそらくは、梶原一族など、どれかその一船上で、歯がみしつつ、
「能のう なき九郎どのが、ついに大将の器うつわ
にあらぬ凡性をみずから発あば
き見せたるわ」 と、口汚くののしっていたことだろうと思われる。 いずれにせよ、源軍の尾端と、平軍の左翼とは、長門壇ノ浦端はず
れの海上で、もう、矢交やま ぜの喚おめ
きを、揚げていた。 また右翼も、その船列を、豊前岸の方から大きく迂回うかい
しはじめている。源軍の真っただ中を両断して、さらに主力の一陣から猛攻を加え、ここ串崎の細長い陸岸の壁に、源氏の全水師を追いつめて、一艘残らず葬ほうむ
り去ろうとする勢いをあきらかにしていた。 |