〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/07 (土) かみ ふみ (四)

まぶしげに、義経は、凝視の顔を、西方へ向けていた。
海面は、ぎらぎら揺れ、しかと、 にとらえ難い。
朝には、平家方が視覚に悩んだ、陽が傾くにつれ、それは逆になってくる。
「・・・・来たか」
義経は、つぶやいたきりである。
下で待つ郎党どもの顔へ、一語の令もまだ発しない。
いや、令を待つ者は、この一船上だけでない。
かじてん じて、迎え討つ態勢へ移るのか、あるいは、他に何か策を取るのか、総勢の船も今、令の合図を、待ちぬいていよう。
が、義経は容易にだん を下しかねている風だった。のみならず、なんの逡巡しゅんじゅん か、舷側げんそく を洗って行く直下に波間をのぞき込んだ。いつまでもそうしていた。
「忠信。大八郎」
「はっ」
「そのほかの者も、これへ来て、おのおのの軍扇を波間へ投げよ、投げてみよ」
なんのためか、彼らは怪しんだ。
── が、いわるるまま、各自その一扇いっせん 一扇いっせん を開いては、波へ向かって投げた。義経は、潮の乗って流れ去る一扇を波の果てに見送っては、また次の一扇の行方を見ていた。そして、
「おう、しお あしは、いつか刻々とゆる やかになっておる。さてこそ、敵の権中納言も、機をはず してはと、焦心あせ って来たはず」
果然、彼の声の裏には、何か確信がこもっていた。彼は即座に、令を下した。
「── 総勢はなお退陣をつづけよ。敵をいなざいなざ い、串崎と満珠まんじゅ の沖あたりまでも遠く退 がれ」
号令の意味が全部の船上にゆきわたったころ、平軍は早やその全能力を挙げて、追い潮の利に乗じつつ近々と迫っていた。
偉容堂々たる唐船からぶね 数隻がその中心であった。数も源氏がたよりやや多く、堅牢けんろう な舟艇と、船型の大きな点なども、概して、平家の方が優位であった。
それになお平家の立場は、追い潮のうえに、順風の利を占めている。ただし追い潮は、あと半刻はんとき (一時間) までの間でしかない。ひつじ下刻げこく (午後三時) ともなれば、この落潮はぴったり み、満潮時の平静を見せながら、やがて今度は、逆流に変わる。
義経が待つものは、それが逆流に転じる時だった。
それなのに、無謀な攻撃を、うまこく から開始したのは、なぜなのか。
思うに、時や潮合いを計っていれば、平家方も 「さは、させじ」 と、それ以前に、猛攻撃を起こしてくるからであったろう。
その場合は、絶対的な不利におかれる。どう逃げかわしても、味方の壊滅か大損傷はめぬがれ難い。ひつじ下刻げこく といえば、長い春の日とて間もなく暮れよう。薄暮のころが、源氏にとって最良な時刻なのだ。それまでの維持もおぼつかない。 かず、我から彼へぶつかってゆき、あと うかぎり、時をかせ ぎ、敵を誇らせ、いわゆる “まぎ れ” の戦法をとって、時来たらば、反転せん ── というのが彼の真意であったとみえる。
では、知盛の腹はどうか。
いうまでもなく、知盛は義経がのぞんでいることをの反対を望んでいる。
しかし、さすがの彼も、義経の悪条件を無視した逆戦法には意表を突かれた。そのため、我から攻撃に出るべき大切な時機を失ったかたちでもある。勝利には見えても、決定打とはならない戦に、むなしく幾刻いくとき かを空費したうら みは多い。
── で、猛然と、追撃をかけたのだった。
今、この潮のまに、完膚かんぷ なきまで敵をたたきつぶ さなくて、いつ天与の時があろうか。
「── 一ノ谷、屋島の汚名をそそぐは今なるぞ。者ども、ふる えよ。積年の恨事、今こそ東国武者に思い知らせよ」 と、知盛のいる大櫓おおやぐら でも、能登守教経の立つ唐船からぶね の上でも、声をからしているであろう形相と叱咤しった が、眼に見えるようであった。
追撃陣は、三段に分れ、右翼は豊前寄りを、左翼は長門側から南下し、中央の主力は、ややくぼ み形に遅れて、六百余艘、鶴翼かくよく をなしていた。── つまり三面包囲の形である。
源氏の長い船影の先は、すでに串崎の突端あたりまで、漂うあくた のように押し流されていた。これを見れば、たれしも 「あなや、源氏危うし」 の感なきを得なかったろう。おそらくは、梶原一族など、どれかその一船上で、歯がみしつつ、 「のう なき九郎どのが、ついに大将のうつわ にあらぬ凡性をみずからあば き見せたるわ」 と、口汚くののしっていたことだろうと思われる。
いずれにせよ、源軍の尾端と、平軍の左翼とは、長門壇ノ浦はず れの海上で、もう、矢交やま ぜのおめ きを、揚げていた。
また右翼も、その船列を、豊前岸の方から大きく迂回うかい しはじめている。源軍の真っただ中を両断して、さらに主力の一陣から猛攻を加え、ここ串崎の細長い陸岸の壁に、源氏の全水師を追いつめて、一艘残らずほうむ り去ろうとする勢いをあきらかにしていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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