〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/06 (金) かみ ふみ (三)

── 義経は、ふたたび敗れた。
敵の意表に出た急襲なので、初めは平軍をかき乱し、かなりの犠牲を敵に出させたが、もともと、逆潮に向かい、無謀を知っての攻勢である。長くはその利も続くはずがない。
加うるに船戦ふないくさ は、田野浦前面のむずかしい湍潮せしお をめぐって行われた。梶原が苦闘した朝の一戦とおなじてつ を繰り返したのもふしぎはない。
やはて旗色は振わず、源軍は、湍潮の自然力に大きくうごかされ、四分五裂になってしまった。船力の集中など思いもよらない。いわば烏合うごう の兵となった。
水利に明るい平軍は 「時こそ」 とばかり攻勢に転じ、追っかけ追っかけ、個々撃滅のかたちに移った。
── が、すでにその徴が現れたころ、義経は く 「総勢退け」 を命じていた。かね が、船から船へ、騒然と退却を伝え合い、白旗を伏せ、逃げ帆を揚げて、乱れ退いた。
「さても、なんたるぶざま」
いくさ 上手の判官どのも、船戦ふないくさ では、くが における面影もない」
「なんと無念な」
「二度まで敗れを重ねるとは」
どの船上でも、東国武者の荒っぽい声と、口惜しさに燃えている顔がいっぱいに見える。
陸戦では 「たとえ、味方は退くとも」 と、踏みとどまって、頑張がんば る勇者も見られるが、海上では、しょせん、無意味な沙汰である。地だん踏んで、敗走をともにするしかみち はない。
「そもそも、判官どのは、うまこく まで待て、午ノ一点こそ総懸りの時ぞ、などと言われていたが、何のための潮待ちであったの」
「わざと敵へ当って、いよいよ、敵の気鋭を誇らせたようなものでしかない」
「心得ぬ御指揮ではあるぞ」
「梶原どのの口真似くちまね ではないが、かくては、天性、将器のお人ではないのだろう。その奇略とやらも心もとない」
「何せい、お若い、お若い。船戦はきが とは違う」
「とかく一昨夜から、二の足ばかり踏まれておる。御自身は、しかとした戦略もなく、ここへ来て、平家の威容に気をのまれたのではあるまいか」
船と船とに分かれているので、非難もごうごうたる高声である。わけて、鎌倉直参の家人たちは、そう義経を恐れていない。むしろ梶原に迎合的な声すら聞こえる。
ただ、さすが義経の旗艦だけは、静だった。彼の耳を恐れるのではなく、ここには、彼の股肱ここう の郎党が多かった。たとえ、鎌倉家人の武者にしても、もな心から義経に服していた。
「三郎、三郎。ちと船脚ふなあし を落せ。ちと逃げ脚が早過ぎたぞ」
義経は、やぐらの上から、下に見えた伊勢三郎の頭を、のぞき下ろして言った。
仰向いた伊勢が、放胆に顔をくずして笑った。逃げ脚と言った義経の顔が、何か、おかしかったものらしい。
「いや、帆も降ろしまいた。 もゆるやかにと、今、申し渡しておりまする」
「そうか。このはや さは、まだ潮の落ちて行く力とみゆるな」
「されば、西から東への、落潮の勢いは、なお んでおりませぬ」
「忠信」
と、こんどは、やぐらのすみ に立っていた佐藤忠信を振り向いて、
「時刻は?」
と、訊ねた。
ひつじ (午後二時) には、少々間がありましょう」
「かなり長く思われたが、まだ一刻いっとき (二時間) ほどしか っていないか」
そのとき、後陣の方で、何か騒然たる雑音と声が起こった。陽ざしをあん じていた義経は、きっと、視線を向け変えた。見方の船列と、また逆光線のために、さだかに見えなかった平軍の船影が、こっちへ向かって、黒々と近づいているのであった。
「しゃつ、敵の追い討ち」
忠信が大声で言う。
櫓下へも、伊勢三郎、千葉胤春、水尾谷十郎など、だだだと、駈け集まって来、
「わが殿、わが殿。敵は船勢残らずそろえて、追い討ちかけて参りましたぞ」
「平家の、これまでとは打って変わり、田野浦を後ろに捨て、大挙、攻めに転じて来る様子」
「なんとも物々しく見えまする。勝ち誇って、お味方の引き脚を、さらに撃って撃ちのめさんと、追い迫って来たに相違ありませぬ」
やぐらへ向かって、口々に彼らは叫んだ。いや、義経の結ばれているくちびる から出される次の命令を、早くとせがむが如き声だった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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