ところへ、彼が無二の臣としている紀
ノ光李みつすえ が帰って来た。──
光李をどこかへ使いに派したのは源氏の総襲そうよ
せ前であった。ために果たして、無事に帰船出来るかどうか、生死すらも、案じられていたところである。 「おお、光李か。よくぞ戻りし。・・・・途中、源氏の船に追われたであろうに」 「いえ、幸いにも、阿部民部どのの助けに会い、民部どのの兵船に守られて、からくも無事を得て、立ち帰りました」 「して、申し付けた儀は」 「一そうの女房船の内にて、北ノ方様を訪い参らせ、親しゅうお目通り申し上げ、おさしずの御文おんふみ
、おかたみ、相違なくお届けいたしまいてござりまする」 「・・・・泣いたか」 「そ、それやもう、仰せまでもございますまい。泣いたかとのお訊たず
ねは、余りに、むごいおことば」 光李は、とたんに、よろいの袖で顔を隠した。だが、肩のふるえは、悲泣の底波を隠しきれていない。 知盛の瞼まぶた
も、あやうく、誘われかけたが、 「いや」 と語気をきつくかえ ── 「かねがね、彦島を離れる前から、よう申しふくめてはおいたが、なんというても、女のこと。いざとなっては取り乱れ、あらぬ愚痴など口走って、泣き狂いなどしなかったか・・・・と、それを訊たず
ねたまでのことぞ。光李、大儀であった。── もうよい、戦の中だ、早や弓を取って、一方の楯たて
に立て」 「はっ・・・・はい」 顔を押しぬぐって、 「これは、北ノ方様のお返し文ぶみ
と、おかたみ交が わしの品にござりまする」 と、何やら小袖こそで
布ぎ れに包んだ物を、知盛に手渡すやいな、すぐ櫓梯子やぐらばしご
を降りて行った。 妻の返し文は、いと短かった。 二、三行の美しい仮名かな
が、ひらと、彼の手から風に翻かえ
された。また、紙元結かみもとい
で巻いた短い毛と、やや長めな髪とが出て来た。 彼の妻子は、二位ノ尼とも女院とも別れ別れに、べつな女房船の一艘に乗って出た。北ノ方はまだうら若く、十二と九ツの子を抱えている。上の名は六代ろくだい
。九ツになる下の子は知忠ともただ
といった。 おそらく、かたみ交が
わしの黒髪は、妻と子のものであったろう。知盛は文に中に巻き入れて、肌の深くへそれを秘めた。やや安堵あんど
の色がその顔に漂う。 彦島を離れるさいも、彼のみは、女房の柵さく
を訪わなかった。思いやりの深い女院が、そっと、彼の妻子を御所の一間へ呼んでおいて、最後の別れを惜しませようと計らってくれたが、渡御陣とぎょじん
の混雑やら、事態の急に追われて、つい、そのおりもそこに来ている妻子と一目の別れすら出来ずに船出してしまったのだ。 とはいえ、この戦場に立っての後まで、なお恋々とそのことに拘泥こうでい
している知盛であるはずもない。 この戦の中に、ではなんで、紀ノ光李を、妻子の許へやったのだろうか。疑えば、不審である。しかし、この謎は、使いした光李のほか、知盛の部下すらついに知る者はなかったらしい。いや平家の内でも、幾人が知っていたろうか。おそらくは指を折って数えられる極くわずかな人びとに限られていたのではないか。
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