〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/05 (木) かみ ふみ (一)

平家七百余艘、源氏六百艘ぢかくは、いま完全にひとつ海面うなづら をうずめ、敵味方のけじめもわからず、乱れ合った。
ただ、くれない の旗、白き旗が、それと知られるだけである。
から み合う小型な兵船と兵船との、打ち物を振りかざしての斬り結び。
熊手や、鈎棒かぎぼう などで、引っ懸け合い、なぐ り合い、また、組んではそのまま、もろ だおれに、飛沫ひまつ の下となるのもある。
巨船の動きは、鈍重であった。
自然、矢戦やいくさ の応酬が多い。舷々舷々げんげん 双方の上から湧き上がる武者声は、弦鳴つるな りや波音をもくるんで、ふしぎな大音響を雲にこだま させている。
光と色を持つ疾風はやて とも見える矢風の中には、おりおり、鏑矢かぶらや のうなりが魔の笛を吹いて走り、火ダネを抱いた火箭ひや も薄い煙を矢道にひき、 つ射られつ、飛び交う。
「さても無謀な敵。── そも、義経は何を思うて、潮向きの不利もいと わず、かかる総攻めを 三に仕懸けて来たか?」
知盛は疑った。思わず、そうつぶやいたことだった。
平家の旗艦は、彼の坐乗するこの一隻であり、屋形やかた がさ ねの大櫓おおやぐら は、すなわち司令の塔であった。
一時は、彼も狼狽ろうばい した。色をなし、声をからしつつ、自陣の立て直しに、死に物狂いの指揮を見せていた。
けれど 「さても無謀な義経 ──」 と、いうつぶやきが、彼の口から出た時は、もう、急場をこえて、ある機微な見通しと同時に、落ち着きも得ていたらしい容子ようす に見えた。── そして今は、
「・・・・よしっ」
と、自ら許しているような眉根であった。ようやく、盛り返して来た味方の旗色を見たのである。
とともに、胸は、人知れずいた んでいた。 「ああ、この狂瀾きょうらん の中に、幼いみかどが る。耳をおお い、黒髪を伏せ、ただわなないているしかない女房の群れは」 と、思いやらずにいられない知盛だった。
── ふと、その眼を、さまよわせる。
まるで幾千羽のがん が、一沢いったく の水に浮いているような敵味方の船影である。彼の眼は、何かを、その中に探しているふうだった。
「オ。あれに」
眸に映った物は、細い黄旗の流れだった。 「ああ、幼帝はおつつがない」 と、一安心したかのように、ふと、そのまま凝視を らしている。
すると、すぐやぐら の真下で、
「や、や、いらにお いがするぞ」
「屋形の内から煙りがもれている。屋形の内を、あらためろ」
「出火だ。火箭ひや が刺さったのだ。屋形の内に」
「なに、火箭が?」
煙は、やぐら へ噴き上げ、横へも、はい拡がる。
兵の消化は、迅速じんそく だった。幸い、見つけたのが早かったので、大事にもいたらなかった。しかし、余燼よじん のいぶりはなお立ち昇って来、知盛は、何度も せた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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