〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/05 (木) りょう ゆう どく しん (三)

「見ろ、貞綱。われらへ向かって、敵は一せいに、へさき を向け始めたぞ」
「しゃっ、恐れるものではありません」
権藤内ごんのとうない 貞綱さだつな と弟貞童は、返り血に染まっていた。
串崎船と、から み合ったせつな、櫓座ろざ の者は、鈎棒かぎぼう熊手くまで を持って、すぐ敵の舟べりを引っかけた。貞綱兄弟は、躍り込んで薙刀なぎなた をふるい、敵を蹴込けこ み、教経が手を下すいとまもなく七、八名を海の藻屑もくず として、躍り返って来たのである。
「いや兄弟の君、今のは、ただ一そうの敵であったれ、次のは、十そう二十そう、限りもなく続いて来よう」
「なんの、串崎や熊野の雑魚漁ざこと り舟が、いくら来ようと、何ほどのことがありましょう」
「さはいえ、かこまれて、矢的やまと におかれてはたまるまいぞ。いっそ、われから、ぶつかって行き、敵の舟から舟へと、 んで行こう。おのれの舟に、執着していては不覚を取ろう」
「殿には自在にお働きなされませ。兄弟、お姿を眼から離さず、どこまでも続いてまいりますれば」
「おうっ、あれへぶつけろ」
教経は、一そうの敵を見て、指さした。
その兵船は、武者足場に、粗板あらいた を敷詰めてあり、上には二十人も乗っていた。みな弓を張りそろえ、一そうが一小隊の射手いて じん を成していた。
教経主従は、射向けの袖をかざして、身をうつ伏せた。そのまま、すご弦音つるおと の下に耐えつつ、どんとへさき が震動したとたん、躍り上がって、飛び散る水玉とともに、敵中へ斬り込んでいた。
こう手許に入られると、射手陣は、その弱点を、みじめに曝露ばくろ してしまう。
とあわてても、左手ゆんで の弓は、五本の指に、膠付にかわづ けになっているように、すぐ捨て難いものだったし、投げ捨てて、太刀に持ちかえるにも、秒間の遅れがある。それに、せまい一船の上ではあり、味方同士の混乱はどうしようもない。
教経の行動は、無謀極まるものと見えたが、かえって、それが敵の意表を突いていたことにもなる。源氏の兵は、われから海へこぼれ落ち、踏みとどまった者たちも、教経主従の薙刀の下に、船ぐるみあけかばね となってゆく。
「なぜ、見ているか」
「なぜなぜ、射ぬかっ」
むらがり寄る射手船の上には、かん だかい部将の声がしきりだった。けれど、まと の人間は、一瞬も一人で立っていることはない。下手へた に射れば、同士打ちのおそ れがある。弓は引き絞ってみるものの、味方を射まいとすれば、容易につる が切れないのである。
「ええ、面倒」
「敵は、わずかな主従」
「しかも、ゆゆしい装いは、たしかに、平家の公達きんだち の一人ぞ」
「寄せに寄せて、からめ れや」
おめき合いつつ七、八艘が、盲目的に、ふなべり を接して来た。
そのとき続けさまに 「わああーっ」 という咆哮ほうこう が、何度も海鳴りと一しょに、繰り返された。
平家方の声だった。平家方でも見てはいない。
「あれよ、能登どのなるぞ」
「能登どのを討たすな」
「あの小早舟こばや を、お助けせよ」
と、附近の大船小船が漕ぎまわり、その櫓やみよし などに、つる を並べたが、しかし彼らのねら いも、万一の同士打ちが懸念されて、矢での加勢はためらわれた。といって、教経のそばへ寄るには、敵船のさまた げもあり、近づくのさえ容易ではない。
その間に、教経の一舟は、もう敵の真っ黒な囲みの中に没していた。── けれど事実はむ教経はその中にもいなかった。
彼は、敵の兵船が一せいに押して来たのを見ると、それが、なお水面六、七尺も距離を余しているまに、わらから、ふなべり って、敵の舷へ跳び移っていた。
どっと、敵は将棋だおれになり、彼自身も、まろびたおれた。けれど不意をつかれた動顛どうてん と、捨て身の勇の違いがある。
教経は、大薙刀を縦横に振い、地に飽かせては、またほかの敵船へ躍り込んだ。彼の行く所、血の船になった。そして敵が怒号とうろたえに暮れている間に、彼自身は、ざんぶと海中へ飛び込んでしまった。もちろん、具足腹巻は解き捨て、銀摺ぎんずり の鎧下着だけとなった影が、真っ青な潮を切って泳いでいたのである。
教経が坐乗の船たるかの唐船からぶね からも、津ノ判官盛澄らが、軽艇を出して、必死な救出にかかっていた。さもなければ、いかに教経とて、よろいを解く間、また、海へ逃げ入るすきも、なかったかも分からない。
── すぐ彼が海中から伸ばした手は、津ノ判官盛澄の手に結ばれ、味方のふなべり へ引き上げられた。権藤内貞綱も、ほかの味方の船に救われていた。けれど、彼の弟貞童は、ついに姿が見つからなかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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