〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/04 (水) りょう ゆう どく しん (二)

ところが、まだ陽も中天と見えるのに、果然、敵は直進して来た。
それも、朝方の一戦と違い、全水軍の敵のみよし が、田野浦の一点をさして向かって来る。早くも、彼の軽舟の先鋒せんぽう は、平軍の船と船の間を縫い、
「あれぞ、お座船」
「あの唐船からふね こそ」
と、日月じつげつばん めがけて、むらがって来たのである。
平家の応戦が遅かったのは、知盛の誤算にも因があるが、あいにくひる兵糧時ひょうろうどき とて、兵が皆休息していたためでもあった。
わけて、今しがた、黄旗の秘船から、あわてて小早舟こばや を漕ぎ返して来た能登守教経は、われから敵の矢ごろへかかって来、
「しまった」
と、眼に余る敵勢に、髪逆立てた。しかし櫓座ろざ の者へは、そのまま、必死に を急がせた。
しかし、彼の帰ろうとする船は、源氏の目標になっている唐船である。まず敵の重囲を先に破らなければ、わが巣へ帰ることは出来ない。もちろん、教経は覚悟だ。それを無視して、敵舟の中を通りかけた。
その不敵さに、敵の船手も、
「や、や。あれや味方か敵か」
「敵にしては?」
と、疑い惑った。
もとより能登守教経とは知るはずもない。── が、やがて近く寄った串崎舟の一隻は、教経の舟と接しるやいな、たちまち真っ白な飛沫ひまつ を立て、血のひらめきの下にばたばたたおれ、見る間に、人影もなくなってしまった。そして、その空舟は、吸い込まれるように、渦潮の眼の中にぐるぐるもてあそ ばれた。
「おうっ、敵よ。あのよそお いは、平家のうちでも、名ある者にちがいないぞ。あれにが すな」
源氏の先鋒に、大船は見えなかった。大型の船はまだここまで着いていない。串崎舟、熊野船など、脚の軽い兵船だけが、まず、平軍のふところを撹乱かくらん するため、中軍ふかく、潜航していたのであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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