〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/03 (火) りょう ゆう どく しん (一)

は中天であった。それから見ても、時刻はちょうど正午ごろだ。さきに、義経自身が 「われから攻勢に出る潮時」 と言っていたそのうまこく (正十二時) を、いくらもずれてはいない。
はじめ。
源氏方の動きをみとめても、平家方ではたかをくくっていたらしい。またまた、敵が輪陣旋回せんかい の示威をくり返して来るものぐらいに思っていた。権中納言知盛すらも、落ち着き過ぎていたきらいがないではない。
が、あながちそれも知盛の油断とばかりは言えないだろう。むしろ知盛の智が、敵の智を読みすぎた結果と見られる。
よはいえ、その序盤において、義経がまず、知盛のウラに裏をかいて出、ために知盛が一時、読み違いのうろたえを見せたことは確かである。
知盛と義経と、この両者は、とまれお互いの器量をよく知りあっていた。敵ながらその人物には、相互が尊敬に似た怖れを持ってい、いささかも軽んじるなく、はっしり、四つに組んだ形だった。
一面その日 ── 寿永四年三月二十四日 ── 当日の潮相から両軍のふくみを ると、また一そう、両者の駆け引きはよく分かる。
ここのくび られた海峡を、西の玄海げんかい から、東の瀬戸内へと落ちてゆく潮流のもとも烈しい最盛時刻は、下刻げこく (午前十一時) でそれを絶頂に、あとは午後三時ごろまで、徐々に、緩流かんりゅう になってゆく。
そして、しばらくは、満々たる静かな漲潮ちょうちょう を保ってい、やがて、こんどは東から西へと、逆に、潮向きを変え出すのである。そのまま、夜にはいるまで、逆流は加わるばかりで変化はない。
これは極めて平凡なこよみ の日課だ。しかし、動かし得ない大自然の法則でもある。
当然。── 敵の義経たりといえ、その法則は無視できまい。自己に有利な追潮おいしお を待つことだろう。とすれば、うまこく ごろは、まだまだ落潮のさかりである。少数の船ならとにかく、無理に逆潮へ大船列を動かせば、統御はつかず、櫓舵ろかじ の困難はいうまでもないし、みずから墓穴を掘るものだ。ゆえにおそらく、義経が攻勢に出るのは、ひつじ下刻げこく (午後三時) 前後とみて狂いはあるまい。── それまでの行動は、ただの示威か瀬ぶみの程度にすぎないだろう。── というのが、知盛の見通しだったのだ。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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