陽
は中天であった。それから見ても、時刻はちょうど正午ごろだ。さきに、義経自身が 「われから攻勢に出る潮時」 と言っていたその午うま
ノ刻こく (正十二時)
を、いくらもずれてはいない。 はじめ。 源氏方の動きをみとめても、平家方ではたかをくくっていたらしい。またまた、敵が輪陣旋回せんかい
の示威をくり返して来るものぐらいに思っていた。権中納言知盛すらも、落ち着き過ぎていたきらいがないではない。 が、あながちそれも知盛の油断とばかりは言えないだろう。むしろ知盛の智が、敵の智を読みすぎた結果と見られる。 よはいえ、その序盤において、義経がまず、知盛のウラに裏をかいて出、ために知盛が一時、読み違いのうろたえを見せたことは確かである。 知盛と義経と、この両者は、とまれお互いの器量をよく知りあっていた。敵ながらその人物には、相互が尊敬に似た怖れを持ってい、いささかも軽んじるなく、はっしり、四つに組んだ形だった。 一面その日
── 寿永四年三月二十四日 ── 当日の潮相から両軍のふくみを観み
ると、また一そう、両者の駆け引きはよく分かる。 ここの縊くび
られた海峡を、西の玄海げんかい
から、東の瀬戸内へと落ちてゆく潮流のもとも烈しい最盛時刻は、巳み
ノ下刻げこく (午前十一時)
でそれを絶頂に、あとは午後三時ごろまで、徐々に、緩流かんりゅう
になってゆく。 そして、しばらくは、満々たる静かな漲潮ちょうちょう
を保ってい、やがて、こんどは東から西へと、逆に、潮向きを変え出すのである。そのまま、夜にはいるまで、逆流は加わるばかりで変化はない。 これは極めて平凡な暦こよみ
の日課だ。しかし、動かし得ない大自然の法則でもある。 当然。── 敵の義経たりといえ、その法則は無視できまい。自己に有利な追潮おいしお
を待つことだろう。とすれば、午うま
ノ刻こく ごろは、まだまだ落潮のさかりである。少数の船ならとにかく、無理に逆潮へ大船列を動かせば、統御はつかず、櫓舵ろかじ
の困難はいうまでもないし、みずから墓穴を掘るものだ。ゆえにおそらく、義経が攻勢に出るのは、未ひつじ
ノ下刻げこく (午後三時)
前後とみて狂いはあるまい。── それまでの行動は、ただの示威か瀬ぶみの程度にすぎないだろう。── というのが、知盛の見通しだったのだ。 |