教経の胸は、しきりに急
かれていた。 「・・・・帰ろう。帰らねば」 と、何度も辞去の言葉を、いや、今生のお別れの辞を、口へ出しかけていたのであるが、みかどには、教経もなく合戦もない。ふたたび、おん母にまといついて、花を画いて見せよ、鳥を画いて給もれと、紙を展の
べ、絵筆を押しつけてやまないのである。 ── で、つい女院はまた、墨を筆の穂へ、そして、紙へ向かって、何やら絵を想うお姿だった。おそらく、心は絵にも溶と
け入るどころではあるまいに、御子みこ
にせがまれるまま、そうしておられた。 教経はまた、お別れを告げる機会を失った。 ばたと、一筆の薄墨が白紙へ滲にじ
んだ。よ、一点また一点、筆の腰が、薄い墨斑すみむら
を重ねていった。見る間に、それは大輪の牡丹ぼたん
の花になりかけた。── が、香ばかりで、色がない。黒牡丹と見れば見える。みかどは、おん眼を凝こ
らし、小さい驚嘆の声を何度もおもらしになった。女房たちも、かたずをのみ合い、教経も思わず首をさしのばした。 ── 女院の真白なお手が、硯すずり
の面へ移って行く。 筆は濃墨のうぼく
を舐な めた。そして、紙の上へ戻って来ると、びっと一葉の濃い葉が、花のわきに付いた。筆が寝る、旋まわ
る。おもしろいほどだった。何か、生き生きと生命を持ちかけた線が伸び、それは幹を成し枝を生じ、たちまち園生そのう
の一樹となりかけた。人びとの眼は、恍惚こうこつ
としていた。すると、とつぜん、 「・・・・やっ。あれや、なんぞ? あのどとめきは?」 教経の後ろで、平内左衛門が突っ立った。つづけさま、こう怒鳴った。 「ただ事ではない。武者声だ。攻め太鼓だ。オオ、貝の音も、みだれ聞こゆる」 「なに、敵か」 教経も、起た
った。 とたんに、眼まな
じりは裂け、蒼白な面に、血の色が、ばっと出た。 「伊賀っ、見てまいれ」 「はっ」 と、平内左衛門の影が、段の口を、踊り上がって行く。 空井戸からいど
の底にも似た無音と冷たい空気だけが、ひしとここの人びとの白い顔を取り巻いていた。顫おのの
きをすら忘却したかのような女性たちの群れだった。 教経の眼は、紙の上に画かれた牡丹ぼたん
も、そこらの白い顔も、同じに見ていた。いわばうつろな眼であった。彼の血が集中されたいたのは、耳神経と、決戦への、猛気であった。 「どうやら、敵の襲よ
せ返しとみゆる。いよいよ、二度の合戦は、近づいたそうな」 たれに言うともなく、つぶやいた時、階段口の上から平内左衛門の度外どはず
れな声が、 「能登どの、能登どの」 と、ふたたび叫び ── 「間近う見えて候うは、敵義経自身の一陣と見えまするぞ。今朝の輪陣とは、かたちをかえ、雁行がんこう
をなして三筋、真ま っ向こう
に、お味方へ向かって、船脚ふなあし
早く近づいてまいりまする。・・・・疾と
う御帰船あらねば、あなやというまに、矢かぜも襲うて参りましょうず」 「おうっ」 と、上に答えておいて、教経は、もいちどひざまずいた。そして、女院へ一礼した。 「では、これにて、能登は戦場へ馳は
せ戻りまする。みかどにも、また、女院におかせられても、何とぞ、お心静かに」 「・・・・はい」 女院は、絵筆を置いた。 そして、みかどを、おひざのそばへ抱き寄せて。 「お案じなされますな。戦の末、どうあろうと、御子みこ
と母との仲は、破れはいたしませぬ」 「安堵あんど
つかまつりました。笑って死んで行けます。・・・・さ、なおたくさん、お絵を画いてお上げなされませ。おさらばです」 教経は、踵きびす
をめぐらして、さっと、段を登って行った。そしてすぐ舷側げんそく
へ走り出し、 「小早舟こばや
の者っ」 「と、呼びたてた。 たちまち彼の姿は、それに移っていた。そして見る間に、風浪の間を、漕こ
ぎゆられて行った。平内左衛門のことばの通り、源軍の雁行がんこう
陣は、海面を圧しながらこなたへ近づきつつあった。 「 ── 急げ。櫓力ろぢから
こめて、急いで漕げ」 小早舟こばや
の上で、叱咤しった するらしい彼の姿へ、早くも、源氏の先鋒せんぽう
から射浴びせてくる乱箭らんせん
が、まばら雨のような太い光を描いて、吹きつけていた。 |