〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/02 (月) お 絵 の 遊 び (四)

教経の胸は、しきりに かれていた。 「・・・・帰ろう。帰らねば」 と、何度も辞去の言葉を、いや、今生のお別れの辞を、口へ出しかけていたのであるが、みかどには、教経もなく合戦もない。ふたたび、おん母にまといついて、花を画いて見せよ、鳥を画いて給もれと、紙を べ、絵筆を押しつけてやまないのである。
── で、つい女院はまた、墨を筆の穂へ、そして、紙へ向かって、何やら絵を想うお姿だった。おそらく、心は絵にも け入るどころではあるまいに、御子みこ にせがまれるまま、そうしておられた。
教経はまた、お別れを告げる機会を失った。
ばたと、一筆の薄墨が白紙へにじ んだ。よ、一点また一点、筆の腰が、薄い墨斑すみむら を重ねていった。見る間に、それは大輪の牡丹ぼたん の花になりかけた。── が、香ばかりで、色がない。黒牡丹と見れば見える。みかどは、おん眼を らし、小さい驚嘆の声を何度もおもらしになった。女房たちも、かたずをのみ合い、教経も思わず首をさしのばした。
── 女院の真白なお手が、すずり の面へ移って行く。
筆は濃墨のうぼく めた。そして、紙の上へ戻って来ると、びっと一葉の濃い葉が、花のわきに付いた。筆が寝る、まわ る。おもしろいほどだった。何か、生き生きと生命を持ちかけた線が伸び、それは幹を成し枝を生じ、たちまち園生そのう の一樹となりかけた。人びとの眼は、恍惚こうこつ としていた。すると、とつぜん、
「・・・・やっ。あれや、なんぞ? あのどとめきは?」
教経の後ろで、平内左衛門が突っ立った。つづけさま、こう怒鳴った。
「ただ事ではない。武者声だ。攻め太鼓だ。オオ、貝の音も、みだれ聞こゆる」
「なに、敵か」
教経も、 った。
とたんに、まな じりは裂け、蒼白な面に、血の色が、ばっと出た。
「伊賀っ、見てまいれ」
「はっ」
と、平内左衛門の影が、段の口を、踊り上がって行く。
空井戸からいど の底にも似た無音と冷たい空気だけが、ひしとここの人びとの白い顔を取り巻いていた。おのの きをすら忘却したかのような女性たちの群れだった。
教経の眼は、紙の上に画かれた牡丹ぼたん も、そこらの白い顔も、同じに見ていた。いわばうつろな眼であった。彼の血が集中されたいたのは、耳神経と、決戦への、猛気であった。
「どうやら、敵の せ返しとみゆる。いよいよ、二度の合戦は、近づいたそうな」
たれに言うともなく、つぶやいた時、階段口の上から平内左衛門の度外どはず れな声が、
「能登どの、能登どの」 と、ふたたび叫び ── 「間近う見えて候うは、敵義経自身の一陣と見えまするぞ。今朝の輪陣とは、かたちをかえ、雁行がんこう をなして三筋、こう に、お味方へ向かって、船脚ふなあし 早く近づいてまいりまする。・・・・ う御帰船あらねば、あなやというまに、矢かぜも襲うて参りましょうず」
「おうっ」
と、上に答えておいて、教経は、もいちどひざまずいた。そして、女院へ一礼した。
「では、これにて、能登は戦場へ せ戻りまする。みかどにも、また、女院におかせられても、何とぞ、お心静かに」
「・・・・はい」
女院は、絵筆を置いた。
そして、みかどを、おひざのそばへ抱き寄せて。
「お案じなされますな。戦の末、どうあろうと、御子みこ と母との仲は、破れはいたしませぬ」
安堵あんど つかまつりました。笑って死んで行けます。・・・・さ、なおたくさん、お絵を画いてお上げなされませ。おさらばです」
教経は、きびす をめぐらして、さっと、段を登って行った。そしてすぐ舷側げんそく へ走り出し、
小早舟こばや の者っ」
「と、呼びたてた。
たちまち彼の姿は、それに移っていた。そして見る間に、風浪の間を、 ぎゆられて行った。平内左衛門のことばの通り、源軍の雁行がんこう 陣は、海面を圧しながらこなたへ近づきつつあった。
「 ── 急げ。櫓力ろぢから こめて、急いで漕げ」
小早舟こばや の上で、叱咤しった するらしい彼の姿へ、早くも、源氏の先鋒せんぽう から射浴びせてくる乱箭らんせん が、まばら雨のような太い光を描いて、吹きつけていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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