内には、二位ノ尼の白い姿が見えた。侍女もいる。脇座
の人は、修理大夫経盛、その側の僧衣の人は、彼の義弟、阿闍梨あじゃり
裕円ゆうえん 。 声をかけたのは、その裕円らしく、平内左衛門の方へ向かって。 「さいぜんから、みかどのおん泣き声がやみ給わぬが、いかがなされしか。もしや、お悪戯いた
などの末、おけがでもされたのではないかと、尼公にも、これにて、お案じ遊ばしておらるるが」 「いや何。さような儀ではおざりませぬ。ひたすら御窮屈をお厭いと
い遊ばし、例の御癇症ごかんしょう
をお発し遊ばされたもののように伺われまする」 「ならば、ごむりもないし、またなんとも、ぜひないことではあるの。したがなんぞ、み心の紛まぎ
れるようなお遊び事でもして上げられぬものか。女房たちも大勢おりながら」 「さまざま、お相手申し上げましても、やはりすぐお飽きになり、ただ、上へ出たい、外へ行きたいとのみ、おむずがり遊ばすやに拝されまする」 そう聞くと、それまで、白木の彫像を思わすような冷たさだった尼の顔に、ふと、人間の線が動いた。でも、尼はなお、涙を垂れなかった。じっと睫毛に耐えて、そばにいる経盛へ、何か、小声ではなしかけている。 経盛は、顔を横に振った。何か、尼が言い出したのを、諫いさ
めている風である。 尼は、みかどを上の屋形へ呼びたがった。 「つかのまであろうが、矢交やま
ぜも休み、源氏も退いた様子ゆえ、この間だけでも」 というのらしい。しかし経盛は 「ここを玉座とせば、やはりここだけに、じっとしておいでにはなりますまい。おつらい怺こら
えも、今日一日のこと、かつは重大な味方の計り事でもありますから」 と、切になだめるのであった。 ところへ、右舷うげん
の武者大将、淡路守清房が、あわただしく告げて来た。 「能登のと
殿がいらせられました。能登殿がお見えです」 ── と聞くと、尼も経盛も、口をとじ、船上一帯まで肅しゅく
とした気け ぶりであった。 すぐ、そこへ姿を見せて来た教経は、平内左衛門家長に向かい、何か、ふた言三言、問い質ただ
している様子だったが、やがて屋形の内へ進んで、二位ノ尼と、長老の経盛に、陣見舞の言葉を述べ、 「まず、序じょ
の合戦は、上々の利でした。とはいえ、敵に足腰立たぬ痛手を与えたというほどな勝ちでもございません。第二第三と、なお夜の入るまで戦いは繰り返されましょう。これからです。まことの決戦も、能登が働きますのも」 努めて、彼は、ここの人びとを明るくしようとするらしく、快活に、そして微笑をふくみつつ言った。 けれど、彼の持つ微笑には、彼の意図いと
とは逆な、凄気せいき が流れた。どう皮膚の表を明るく見せても、死の色の澱よど
みは消しきれなかった。今日を自分自分の命日と心に決めている尼や経盛に、それが見えないはずはない。 「どうぞ華々はなばな
と悔いなきお働きをしてください。勝ち負けは天意にあること」 尼は、あっさり言った。 教経は、すぐ座を辞して、その立ちがけに。 「みかども、ごきげんよういらせられましょうか。天機をお伺いして、そのまま、わが船へ戻りまする。では、再びお目にかかれずば、いつかあの世で」 「・・・・おう。あの世でのう」 尼は、うるんだ眼で、うなずいた。憖なま
じな微笑よりも、じかに心を打ったのであろう。 外へ出ると、教経は、そこにいた平内左衛門を先に立たせて、船艙せんそう
の段を下へ降りて行った。妖あや
しいまでの黒髪や裳も や白い顔が薄暗がりに大勢見えた。そのたれもが、わけもなく畏怖いふ
を抱いて教経の姿を見上げた。 みかども、もう、泣きやんでおいでらしい。壁代かべしろ
をへだてた奥の方は、ひっそりしていた。教経は 「・・・・能登にござりまするが」 と、まず典侍から女院のみゆるしを得、壁代の端まで進み出て、内を拝した。 ──
ぷんと、墨の匂いが、教経の鼻をついた。 |