〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/31 (土) お 絵 の 遊 び (二)

内には、二位ノ尼の白い姿が見えた。侍女もいる。脇座わきざ の人は、修理大夫経盛、その側の僧衣の人は、彼の義弟、阿闍梨あじゃり 裕円ゆうえん
声をかけたのは、その裕円らしく、平内左衛門の方へ向かって。
「さいぜんから、みかどのおん泣き声がやみ給わぬが、いかがなされしか。もしや、お悪戯いた などの末、おけがでもされたのではないかと、尼公にも、これにて、お案じ遊ばしておらるるが」
「いや何。さような儀ではおざりませぬ。ひたすら御窮屈をおいと い遊ばし、例の御癇症ごかんしょう をお発し遊ばされたもののように伺われまする」
「ならば、ごむりもないし、またなんとも、ぜひないことではあるの。したがなんぞ、み心のまぎ れるようなお遊び事でもして上げられぬものか。女房たちも大勢おりながら」
「さまざま、お相手申し上げましても、やはりすぐお飽きになり、ただ、上へ出たい、外へ行きたいとのみ、おむずがり遊ばすやに拝されまする」
そう聞くと、それまで、白木の彫像を思わすような冷たさだった尼の顔に、ふと、人間の線が動いた。でも、尼はなお、涙を垂れなかった。じっと睫毛に耐えて、そばにいる経盛へ、何か、小声ではなしかけている。
経盛は、顔を横に振った。何か、尼が言い出したのを、いさ めている風である。
尼は、みかどを上の屋形へ呼びたがった。 「つかのまであろうが、矢交やま ぜも休み、源氏も退いた様子ゆえ、この間だけでも」 というのらしい。しかし経盛は 「ここを玉座とせば、やはりここだけに、じっとしておいでにはなりますまい。おつらいこら えも、今日一日のこと、かつは重大な味方の計り事でもありますから」 と、切になだめるのであった。
ところへ、右舷うげん の武者大将、淡路守清房が、あわただしく告げて来た。
能登のと 殿がいらせられました。能登殿がお見えです」
── と聞くと、尼も経盛も、口をとじ、船上一帯までしゅく とした ぶりであった。
すぐ、そこへ姿を見せて来た教経は、平内左衛門家長に向かい、何か、ふた言三言、問いただ している様子だったが、やがて屋形の内へ進んで、二位ノ尼と、長老の経盛に、陣見舞の言葉を述べ、
「まず、じょ の合戦は、上々の利でした。とはいえ、敵に足腰立たぬ痛手を与えたというほどな勝ちでもございません。第二第三と、なお夜の入るまで戦いは繰り返されましょう。これからです。まことの決戦も、能登が働きますのも」
努めて、彼は、ここの人びとを明るくしようとするらしく、快活に、そして微笑をふくみつつ言った。
けれど、彼の持つ微笑には、彼の意図いと とは逆な、凄気せいき が流れた。どう皮膚の表を明るく見せても、死の色のよど みは消しきれなかった。今日を自分自分の命日と心に決めている尼や経盛に、それが見えないはずはない。
「どうぞ華々はなばな と悔いなきお働きをしてください。勝ち負けは天意にあること」
尼は、あっさり言った。
教経は、すぐ座を辞して、その立ちがけに。
「みかども、ごきげんよういらせられましょうか。天機をお伺いして、そのまま、わが船へ戻りまする。では、再びお目にかかれずば、いつかあの世で」
「・・・・おう。あの世でのう」
尼は、うるんだ眼で、うなずいた。なま じな微笑よりも、じかに心を打ったのであろう。
外へ出ると、教経は、そこにいた平内左衛門を先に立たせて、船艙せんそう の段を下へ降りて行った。あや しいまでの黒髪や や白い顔が薄暗がりに大勢見えた。そのたれもが、わけもなく畏怖いふ を抱いて教経の姿を見上げた。
みかども、もう、泣きやんでおいでらしい。壁代かべしろ をへだてた奥の方は、ひっそりしていた。教経は 「・・・・能登にござりまするが」 と、まず典侍から女院のみゆるしを得、壁代の端まで進み出て、内を拝した。
── ぷんと、墨の匂いが、教経の鼻をついた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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