船やぐらはなく、それに代る合掌造
りの大きな屋形と、幾つにも区切った船部屋だけがあった。 つまり亀甲船きっこうぶね
とよぶ横幅の広いあの型の巨船である。船底へ降りると、下にも大部屋小部屋が見まわされた。微かな採光だが、明り窓も切ってある。ゆうに、ある一族の大家族が住めるほどな様式だった。 「あっ、いけません。・・・・上へおいで遊ばしては」 「どなたも、ここへ来て、みかどを、おなだめくださいませ」 「みかどが、どうしても、おきき入れ遊ばしません。階きざはし
へおすがりあって、上へ出るのじゃ、船底にいるのはいやじゃと、仰せられまする」 今、そこの薄暗い中では、女房たちのけたたましい、困り切った声がしていた。 ゆうべの御潜幸ごせんこう
とともに、みかどは、暗い船座敷のひとつを、仮の玉座にあてがわれ、上へお顔を出すことすら、皆からきびしく止められていた。 みかどと女院の御寝ぎょし
の場所は、大きな田舎作りの一間に似ていた。頑丈がんじょう
な木肌がまわりをムキ出しに囲んでい、ふさわぬ几帳きちょう
や壁代かべしろ があるに過ぎない。波明りの青い揺れが窓から射し込み明りの中には這いまわる船虫がたくさん見られた。 そんな息苦しい所に、自然を好む童心のみかどが、耐えられようはずもない。──
今も、おん母のすきを見て、上へ登りかけたところを、女房たちにさえぎられ、むりに壁代かべしろ
の内へ連れ戻されたらしく、さかんにだだを叫ばれたが、やがて、わんわんと泣きぬくお声が、そこの階段口から、上にまで聞こえて来た。 桶おけ
の中みたいに楯たて の並んでいる舷側げんそく
の内を、艫とも から舳みよし
へ、舳からまた艫へと、絶え間なく警戒の眼で歩いていた伊賀平内いがのへいない
左衛門さえもん 家長いえなが
は、ふと、足をとめて、 「はて、困ったもの。・・・・また、お虫気むしけ
か?」 と、そこの口から下をのぞいて、ふと、きき耳をそばだてた。 女院のお声もする。また、大勢の典侍や小女房も下にはいるので、えならぬ御袖の香や、女体の温い匂いが、平内左衛門の顔を撫でた。 「あ、畏おそ
れ多い」 彼は、自分の土足が、玉座の上や、女院のおわす所の上を踏んでいるのだと気づくと、多年の習慣で、脚も竦すく
んでしまい、あわててのぞくことを止め、再び舷側げんそく
へ戻って、無表情な構えで歩き出した。 すると、艫寄ともよ
りの屋形の内から、 「それへ参ったのは、伊賀殿か」 と、呼ぶ声がした。 「はっ、家長にござりまするが」 と彼は、屋形の簾越すご
しに、内へ向かって、ひざまずいた。 |