〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/31 (土) さけ しょう (三)

ただ、その彼にも、返すがえす、おまいましい一恨事いちこんじ がある。
平大納言時忠のありかただった。
今にして、なお彼は 「なぜ、屋島を出るさい、あのおりに、時忠どのを斬ってしまわなかったか。 「一期いちご の不覚ではあった」 と、口惜しく思う。
── で昨夜、宗盛の内諾を得て、部下を屋島へ放ち、今日の海戦前に、わざわ の根を絶ってしまおうとしてのであったが、その策は、失敗に帰した。
そればかりか、立ち帰って来た刺客が彼に告げた時忠の言というものを聞けば 「── 能登は、よいおい 、よい男とは思うが、彼の考えと、自分の思慮とは、千里もちがう」
と言ったとか。
そのうえに 「さほど、平家にじゅん じて、美しゅう死にたいならば、なぜ人の生き方や他を気にせず、自己の信念どおり、ただ一人でも返り見なく死ねないのか、そう時忠が申したと、能登へ伝えよ」 という伝言であったという。
と、聞いた時教経は、 「人を小ばかにしたいいぐさ」 と、怒ったが、しかし、今朝の彼は、叔父おじ の言にも一理はあると、思い直していた。
とはいえまた、時忠がひそかに企むであろう行動とその裏切り目的に、毛頭、気を許すことは出来なかった。
彼の乗船は、主上のいない偽装の唐船であった。日月のばん を見、敵の精鋭は、その一船へ集中して来るに違いない。教経は、予想されるその大敵を引き受けて戦わんと、わらから望んで乗ったのである。── 彼の小早舟こばやみよし は今、その唐船へ近づきかけていた。
と、なに思いついたか、教経は、
「や。── 待て、権藤内ごんのとうない
急に、手を打ち振って、 へ命じた。
「この舟、あとへ戻せ。ちと思い出したことなあるわな。みよし をまわせ」
櫓を っていた権藤内貞綱と、弟の貞童の二人は、いわるるまま、すぐ大きく方向を変えながら、
「もいちど、内大臣の殿にお船へ、お戻りなされますか」
「いやいや、阿闍梨あじゃり御船みぶね へ立ち寄り、阿闍梨あじゃり 裕円ゆうえん どのに、お目にかかっておきたいのだ。今生こんじょう のお別れも告げたし、かたがた、お願い事もちとあれば」
と、べつな船を指さした。
その船の帆桁ほげた には、細い黄旗が風に吹かれていた。
権藤内ごんのとうない 兄弟には、教経のことばの裏と、ほんとの目的とが、すぐ読めた。けれど小早舟こばや櫓手ろしゅ には、左右六人も並んでいた。彼らはただの水夫かこ にすぎない。黄旗の船に幼帝みかど がおいでとは知らないし、また、知らせてはならないのだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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