〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/29 (木) さけ しょう (一)

四郎兵衛、おうい、四郎兵衛びょうえ 。降りてまいれ、寸時のあいだ」
船やぐらの上を仰いで、宗盛みずから叫んでいた。
平家方では、たった今、もろ声合わせて、三度みたび勝鬨かちどき を挙げた。総大将宗盛もまた、その肥大な体と大鎧おおよろい とを、始終自分で持ちあつかいかねていたが、やっと二本の腕を高く上げて、凱歌がいか をともにしたところだった。
「おうっ、ただ今それへ」
飛騨ひだの 四郎兵衛景経は、やぐら梯子ばしご を駆け降りて来、彼の床几しょうぎ の前へ、ぬかずいた。
ほんとなら、総大将の床几しょうぎ は高やぐらに据えるべきだが、何せい、身うごきの重たい 内大臣おおい殿との なので、乳人子めのとご の景経がやぐらに立ち、下の屋形の前を、将座としていた。
「なんと、もろ い敵よ。逃げ脚の早さは見事なもの・・・・」
宗盛は、あたりの公達や侍たちと、笑い合っていたが、景景を見ると、
「おお四郎兵衛。おこと も身には一矢もうけておらぬな」
「一時はこの船へも、矢の雨でしたが、船馴れぬ東国武者のヘロヘロ矢、知れたものと覚えました」
「敵は再び引っ返すようでもないか」
「逃げ退いた船影は、壇ノ浦から岸崎の鼻まで、みだれ霞んでおりまする。やわか、再びすぐには」
「そうか。ならばつかの 、屋形の内で休息いたそう。四郎兵衛、おこと も来い」
内へ入ると、彼は毛沓けぐつ を脱いで、しとねにすわった。そしてさっそく、景経の耳へ小声でたずねた。
「昨夜、そちと能登どのの腹で、しめ し合うて行うたこと、その首尾は、どうだったのか。明け方の軍備いくさぞな えに追われ、まだ吉左右は、つい聞いておらぬが」
「船島の始末でござりますか」
「そうじゃ。今日の戦にかかる前に、平大納言 (時忠) の一命を絶ちおくことが、第一の要心なりと、能登守もそちも切に申すゆえ、ままよいように計れと、昨夜申しおいたが」
「ところが、船島へ忍ばせた刺客どもは、むなしゅう逃げ帰って来た由にございまする」
「それや、どうして?」
「思いもうけぬ武者どもにさまた げられ、人数を増して、再び せて参ったところ、島にはすでに御父子とも姿を見せず、いずこへ逃げ落ち給いしか、皆目かいもく 行方も知れぬとやら」
「はて、 なことよ。大納言父子のほか、かしこには武者はおらぬはず。しかし、さくらノ はいたであろうが」
「いや、そのさくらノ も、ともにどこかへ消え失せた由。察するに何者かが外よりたす けて、かのきみ の身を、他へ移し去ったに相違ございませぬ」
「抜かったりな。さては、源氏の手引きではないか」
「あるいは、お味方の内にも、ひそかに、同腹の者がいて、合戦の裏にて、何事かを、たくら みおるやも知れませぬ」
「油断のならぬことではある。・・・・それにつけ、矢かぜの中でも、すぐ案じられてくるのは、みかどと賢所かしこどころ の安否ぞ。昨夜のうち、べつの一艘へ、主上と女院は、深くおかく まい申し上げてはあれど」
「されば、乱軍と相なっても、他の船とまぎ れ合わぬよう、その一艘の帆桁ほげた には、黄なる細旗を目印めじるし に垂れおかせました。お味方たりとも、それを知る者だけが、一目で分かりますように」
「ともあれ、そこに異変あらば一大事ぞ。そちも絶えず、やぐらの上より を怠るまいぞ」
「仰せまでもございませぬ」
「今朝の一戦に見るも、東国勢は、船戦ふないくさ には口ほどもないようだ。ただ、気がかりは、大納言父子の行方よの。・・・・思えば、能登のすすめを容れ、もそっと早くに、始末しておくべきだった。なま じ情にひかれたり、尼公へのはばかりに、惑うて来たのが悪かった」
「いや、なに企もうと、あの御父子に、兵力はなし、黄旗の秘事を知るはずもございませぬ。おそらくはただ、源氏へすがって、みぐるしいお命乞いに出たまでのことに過ぎますまい」
遠くへ退いた源氏の水軍は、そのまま、動く様子もないと確かめられたので、平軍の将士は、その船上でも、しばし、ひと息入れていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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