〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/28 (水) 好 敵 手 (四)

梶原自身、眼前のこの事実に 「こはそも、何事?」 と、疑った。戸惑ったといっても過言でない。湍潮せしお の暴威を見ながら、その中の味方をたす けんと、彼の大船も、湍潮に巻かれていたのである。
だが、小型船ほどにはそれにめくるめ かないまでも、たちまち、自由を失った。つきまとう平軍の兵船は、執拗しつよう だった。彼らは、こもの海面に馴れてい、 使いにもかじ の取りようにも熟練していた。敏捷びんしょう な軽艇は、自己のへさき の破損を犠牲にしてまで、梶原の乗っている大船のかじ へ向かって、その先端せんたん を、ぶつけて来る。
ある武者は、そのついでに、艫綱ともづな へぶら下がり、敵の船内へ、斬り入った。また一方のどう からも躍り込んだ。いかり 形の鉄の爪を、細綱の先から投げ込み、船体にへばりついて離れない小舟もある。危険なのは、そこから、火のついた松明たいまつ や、油玉と称する物を、大船の竹楯たけだて の内へほうり込まれることだった。
火と言えば、知盛は、この海戦に、火矢も使った。鏑矢かぶらやさき火屋ほや となし、火ダネをもったそれが、大船の屋形ややぐら に降りそそいで来るのである。 「── 平家弱し」 とのみ んでかかった東国武者も、きも を冷やした。そこまでは、思い及ばなかったことである。
源太景李、平次景高などの船も、苦戦はまぬがれなかった。彼らは、父思いなよい子息であり、よい武者だった。けれど、父を案じても、父親の船へ、助けに寄ることも出来なかった。はるかへだ てられ、彼らも、平軍の重囲に落ちかけていた。
義経の船、そのほか、源氏の諸声もろごえ と攻め鼓は、どうにか、そのさいの間に合った。全滅にひん しかけた梶原一族の人と船とが、まだほぼ半数は海面にあるうちに反撃を加え、ようやくその旗色をもち直していた。
── とはいえ、底を見せた破船の空骸むくろ や、楯や旗や人の屍は、洪水こうずい の後の流木りゅうぼく みたいに、海一面をあくた にした。その流れざまを見れば、今さらのように、ここの怪異な潮の底意地悪さが歴としてわかる。
「── 退け貝を吹け。はや、退け貝を」
義経は、声を らして、かつ命じた。
「風は、西北風いなせ ぞ、帆を上げよ。 う、長門の方へ寄れ。── 敵のあざけ りに、射返しすな。わら わせておけ、ただのが れ出よ。義経の船に続かぬ者は、源氏方にあらざる者ぞ」
からくも救出された梶原の船勢は、さん として、味方の船陣の中にもう抱えられていた。かじ を折られ、舵もきかない船には、艫綱が投げられ、味方の船にひかれて退いた。
突然、雲へとどくばかりな凱歌がいか が揚がった。振り返ると、田野浦一面の紅旗が揺れ沸いている。
平軍は、その勝機にじょう じて、なお追うかと思われたが、追って来る気色はない。三度目の凱歌が、つなみのように、また、海づらを駈けた。
その勝鬨かちどき のなかにある敵将知盛の顔が、義経には、眼に見えるようであった。彼は敗れたが、しかし、平静を欠いてはいない。ただおりおりに、面を せた。舷側を洗う潮の速さと方向を、じっと見ているのだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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