知盛は、それを熟知
していた。 彼の描いている作戦も、もとよりそれを利用するにあった。 敵をおびき寄せて、その湍潮へ追い落とす。── それへ、主眼を置き、苦境の敵勢へ、平家の中堅をもって、当らせ、余隊の味方は、鶴翼かくよく
の形を作って、敵全陣を大きくかかえ、三方からこれを攻めて、さらに北水道の激流まで追いつめれば、ほぼ望むところの殲滅せんめつ
は、わが手のもの。 こう知盛は考えている。 なぜ彼が、豊前田野浦を拠地として、長門に拠よ
らなかったかということも、背面から陸くが
の源氏に襲われる憂いを避けたものであろうが、ひとつには、田野浦前面の複雑な回流の潮相ちょうそう
を利用しようとした作戦であったのは、いうまでもない。読める者には読めていなければならないはずのものだった。 ── 思うに。好敵手、好敵手を知る。 義経のみは、あらまし、知盛の画策を、看破していたのではあるまいか。 昨日の未明ごろには、まだ平家の一隻影も、田野浦には、出ていなかった。 その頃義経は、串崎船頭を水先として、長門岸から豊前岸まで、幾めぐりとなく見てまわった。おそらく、いかに意地の悪い潮ぐせや底渦を持っているかを覚さと
ったに違いない。 海馴れぬ東国武者を率いて、不馴れな土地の合戦に、彼は慎重を極めないわけにはゆかなかったであろう。そして、敵が野田浦へ拠よ
ったことに見ても、敵将知盛の非凡さは、あざらかに分かる。卑怯ひきょう
とは違う恐れを、義経は、知盛へいだいた。 さもあらばあれ、義経は、卒然と、五体をたぎらせ、闘志というか、武者ぶるいというものか、敗れれば身は滅ぶ切羽せっぱ
の巌頭がんとう に立って、必然な生命のおののきに吹かれた。 濃い海の香を満面に、また満目に平家一門の出揃った陣容を迎えると、かぶとの緒お
固い彼の唇くち の辺に、 「よい敵かな、権中納言
(知盛) は・・・・」 と、静かなつぶやきが流れていた。 よい知己は得難い。よい敵手にも会い難い。義経は血をわかせられたのだろう。前夜の彼とは、人間が違ったように見える。男性とは元来こうしたものか。造物主が男女を造る始めにこうけじめづけたものか。男が、仕事に向かっては、創造の権化ごんげ
となりきるのと同じように、あるいは、女が、恋や、母性愛には盲目になりきれるのと同じように、死生の線では、彼は男性そのものだった。── 都にある静しずか
への想いなどは、今、かすかにも抱いていない。頭の隅にもおいていなかった。二人で住まう花の庭。そんな物はケシ飛んでいる。鎌倉どのもない、院もない。あるのは 「好敵手、どう出るか。勝たねばならぬ」
それだけであった。双眸そうぼう
、その精気にみちていた。かぶとの鍬形くわがた
は背を高く見せるが、それにしても、なお、他の武者輩ばら
に比べれば、いと小柄な彼であった。けれど今日の彼こそ、たれでもない平家追討軍の総大将、源九郎義経その人に見えた。 |
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