「射
よ、射よ。弦つる を並べて、まず射浴びせよ」 梶原景時は、吠ほ
えていた。 彼の一船には、三男の三郎景家、一族の漢陽かんやの
五郎ごろう 、鎌倉西党の海老名えびな
源八げんぱち などが乗り込んでい、早くも
「賢所の神器はわが手に」 と、奇功をつかむ思いに燃え、どの兜顔かぶとがお
も、それのみに、硬こわ ばっていた。 嫡子の源太げんた
景李かげすえ 、次男平次景高などもまた、べつな軍船にあったが、父景時の令に、
「おくるるな者ども、屋島の辱はじ
は、今日そそげ」 「九郎の殿に、鼻あかせよ」 と、部下を励まし抜く声が、舷々げんげん
相互に博う ち合う波しぶきのうちに聞こえた。 梶原一党の持ち船は、軽艇を交ま
ぜて百余隻であった。それが輪陣をくずして平家の前衛へ近づくと、たちまち海面は弓鳴ゆな
りの強風をよび、敵味方の咆哮ほうこう
に、波は波を打って白く狂った。 東国武者の慣いである。早くも、平野を騎馬で飛ぶように、八挺櫓はっちょうろ
、十二挺櫓の小型の兵船が、先を争って、奔濤ほんとう
のあいだを縫い、平家の船陣へと、あわや接してゆく。 ── が、なんとそれは野戦と違う無謀であったかがすぐわかった。 盲進といおうか、無成算といおうか。いわば大将梶原のあせりであったというしかあるまい。矢風や白波をくぐって先へ漕こ
ぎ出た小舟の兵や種々さまざま
な兵船は、たちどころに、自由を失い、乱離らんり
となって、あらぬ方向へ、木の葉のように押し流された。 と見るや、平家方では、 「下しも
へまわっれ、あの船、からめ捕と
れ。かなたの小舟の群れへ、こなたの大船の舳先へさき
を打つけて行け」 と、陣を開いて、拿捕だほ
にかかった。 梶原は、狼狽ろうばい
した。 それが何の理由によるかも、とっさには判断もつかないのだ。ただ声をあららげて、 「やあ、未熟な船頭ども、敵へ迫りつつ、なんのざまぞ。あたら先手の舟勢を、みすみす敵の餌食えじき
にさすな。懸かか れ、懸れ、わが大船も、敵の大船へ、真ま
っ向こう 、懸れっ」 と、怒号した。 部下の陥った罠わな
を見ながら、まだ足らずに、彼、その子息らの将船までも、進んで危険極まる湍潮せしお
へ入ってしまったのである。 湍潮とは、なんであろうか。 ここの海峡が持つ特異な秘密性といっていい。ただ見る海づらだけでは分からないが、早鞆はやとも
ノ瀬戸から沖へ出て行く激烈な落潮の勢いが、沖の圧力に押し返され、大きくひたたび弧こ
を描いて、もとの方へ戻って来る。その回流かいりゅう
をいうのである。 湍潮のもどり脚あし
は、急ではない。早鞆の口を落ちるときよりは緩ゆる
やかになっている。それだけに、表面はおとなしい海に見えるので危険なのだ。── なぜなら、その回流は、御崎みさき
の横にさえぎらてて、また反転運動を起こし、田野浦の前面あたりでは、いわゆる南水道と呼ばれる激流の主勢と縒よ
れ合って、無軌道な底渦そこうず
や無数の渦流かいりゅう を作っているからである。
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