〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/24 (土)  つ ぼ の うず (四)

ここの海峡は、彼として、数度に及ぶ実戦の経験もある、いわば手馴れの戦場なのだ。逆潮順潮の変り時はもちろんのこと、その緩急、渦潮を巻く所、北水道、南水道と称する潮流中でも烈しい主流の位置なども、ほとんど、そらんじていたことは、いうまでもあるまい。
それから見て、
ようやく、 の高くなった頃から、うまひつじ の刻限までが、平家にとっては、潮向きがよく、源氏はその間じゅう、逆潮にさまた げられつつ戦う位置を余儀なくされる。
で、知盛は、源軍を出来る限り、豊前岸へ引きつけんものと、今朝から、さまざま仕賭けていた。
「さすが九郎の判官。── 敵もさるものよ」
知盛は、一刻半いっときはん (三時間) にも及ぶむなしいひとり相撲に、いささかいど み疲れのていでさえあった。敵は大きな輪陣を海面にえがき、長門壇ノ浦からこなたへかけて、幾度となく、悠々ゆうゆう たる旋回をくり返しているのだが、どう仕懸けても、矢ごの内へ進んでは来ず、近づいたおり、ふなべり たたいて、あらゆる嘲罵ちょうば を送っても、風に任せて、その輪陣は、遠くへまわってしまうのだった。
陽は、刻々と、中天へかか って行く。
「かくては」
と、彼もあせった。
「やあ、お座船を、もそっと前へ進め参らせよ。知盛の船につづき候え。諸卿の諸船もろふね も、二段三段、沖あいへ進み出て、敵へ近々と当られよ」
と、にわかに令した。
おりふし、敵の輪陣は、梶原一族の船列を、その附近へめぐ らしていた。
おそらくは、梶原父子の眼に、以外であったほど、日月のばん をひるがえした唐船が、忽然こつぜん と、まぢかに見えたことに相違なかろう。
「や、や。あれはお座船ぞ」
「おお、まぎれなき、みかどの御船」
「九郎の殿の一令を待てとはあれど、みすみす、眼前にこれを見、なんでむなしくのが さりょうぞ。これこそは、天の与え」
「天の授くるを、わらから避けなば、冥加みょうが に尽きん。後日また、鎌倉どのへも、申し開きはない。九郎の殿の令を待たば、これを見遁すことになろう。かまわぬ。── かか れや者ども、他に目くれず、お座船へ せて、まず、賢所を乗っ取り奉れ」
梶原景時自身、またその子源太景李、平次景高、三郎景家など、各船上からおめ きあって、ついに輪陣の一角をわれから崩し、颯然さつぜん と、知盛の方へ向かって来たのであった。
知盛は、ひざの草摺くさずり を打ちたたいて、
「してやったり、敵はからみに懸って来たぞ。あれ討て人びと、ただの一艘も、網の目から遁すな」
と、よろこんだ。
彼が笑つぼにはいったことから見ても、梶原勢は、偽装のお座船とも気づかず、どうやら、日月のばん燦然さんぜん たる につられて、われから猛然と、わな へ襲いかかったようなものだった
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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