〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
壇
(
だん
)
ノ
浦
(
うら
)
の 巻
2014/05/24 (土)
笑
(
え
)
つ ぼ の
渦
(
うず
)
(三)
平家の権中納言知盛は、夜来、田野浦へ移っていた。
前の夜の宵。
和布刈
(
めかり
)
の宮の拝殿で、
神酒酌
(
みきく
)
み交わし、名残の管絃に、最後の興を惜しみ合ううち、東方の闇に敵の動きが
観
(
み
)
られたので、おのおのあわてて船へ戻り、深夜の底を、
早鞆
(
はやとも
)
ノ
瀬戸
(
せと
)
の東へあふれ出た。そして、今暁までの間に、
長門
(
ながと
)
壇ノ浦の岸から真向かいの、豊前田野浦の磯に添って、一門ことごとくここに
在
(
あ
)
るぞとばかり、布陣を終えていたのであった。
それ以前に、筑紫の山賀党、松浦党、阿波民部の四国勢などは、早くからここに船陣を置き、遠くは串崎を監視し、近くは早鞆ノ瀬戸の口を守っていた。
あわせて、何百艘か。
吾妻鏡、盛衰記、そのほか、諸書の記載は、どれも一致しない。古典平家は 「── 平家は千余艘を
三手
(
みて
)
に作る」 といい、また 「源氏方、三千余艘」 としているが、もちろん、誇張である。
史家の推算によれば、平軍七、八百艘、源軍五、六百艘と勘案されている。平家の長年に渡る西海地方の経営から推しても、源氏方より隻数が少なかったとは考えられない。
いずれにせよ、今日を晴れと、あるいは、
最期
(
さいご
)
とも、一門の悲壮な心を一つに、その持つ全兵力を展開したことには違いなかろう。── わけて遠くからでも、
燦
(
さん
)
として、一きわ目立つ唐船は、日月の
幡
(
ばん
)
にも知れるお
座船
(
ざぶね
)
であり、知盛も乗り込んでいる大船は、その前衛をなす船列の真ん中に見えた。
いかにも、きびしい護りである。
十重
(
とえ
)
二十重
(
はたえ
)
の護りの中に、日月の幡はあった。
一目
(
いちもく
)
して 「──
帝
(
みかど
)
は、あれに」 と、どうしても思われる。
しかし、前夜すでに、みかどと女院は、別の船にお
遷
(
うつ
)
しされてい、お座船の玉座も、そこの
賢所
(
かしこどころ
)
の神器も、じつは真空なのであった。秘計はもとより昨夜、
和布刈
(
めかり
)
の宮に寄り合った一門の極少数の人びとしか知ってはいない。
が、知盛はあくまで、秘を飾った。物々しく見せかけた。そして、最前衛の船列に身をおいて、 「いかで、東国武者の
下種輩
(
げすばら
)
を近づけん。寄らば眼にもの見するぞ」 と、強弓の射手をそろえて、待ちかまえた。
いや、待つなどは、むしろ彼の本意でなかった。
知盛の胸には、方寸があり、
「──
戦
(
いくさ
)
は、
午
(
うま
)
ノ
刻
(
こく
)
までぞ・おそくも、
未刻
(
ひつじく
)
(午後二時)
までに決せん」
と、これは、味方内にも
布令
(
ふれ
)
ていたことだった。
敵の義経が、潮流の刻限に、細心であったとひとしく、知盛もまた、その計算と潮の利用を、度外視してはいなかった。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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