〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
壇
(
だん
)
ノ
浦
(
うら
)
の 巻
2014/05/23 (金)
笑
(
え
)
つ ぼ の
渦
(
うず
)
(二)
この朝。
豊前田野浦の山や磯の春色をうしろに、全水軍を三段に組み、
紅
(
くれない
)
の
霞
(
かすみ
)
を海上に引いていた平家は、源軍の影を東方にみとめるやいな、ただちに責め貝、攻め鼓の気勢をあげて、一陣二陣と、
先鋒
(
せんぽう
)
の
舳艫
(
じくろ
)
をすすめ、戦いを
挑
(
いど
)
むこと、しきりであった。
── が、こなたの義経は、かたく、
「寄すと見せては、
舵
(
かじ
)
をまわして、退き返せよ。敵にムダ矢は射さすとも、味方は
矢交
(
やま
)
ぜに
応
(
こた
)
えるな。矢ごろ
(射程距離)
までには進まぬうち、潮の流れを見て、
疾
(
と
)
く退けや」
と、不断に命令を下していた。
この指令は、今朝になってからの、声ではない。
すでに、夕べの
帷幕
(
いばく
)
の密議で、各大将には、しめし合わせてあることだった。
ここの特殊な潮ぐせや水路は、すでに、義経は、先につぶさに踏査を遂げていた。
── で当然、作戦基本は、間断なき海峡の
相貌
(
そうぼう
)
に照らして考えられないわけにゆかない。
その結果、前夜の帷幕では ── 味方の総懸りは、
午
(
うま
)
ノ一点
(正午十二時)
をもって開始する。平家方も自己の有利な潮合を計るであろう。その刻限は、われとは逆な、
辰
(
たつ
)
ノ
下刻
(
げこく
)
(午前九時)
から
午
(
ひる
)
前後までに、勝敗を決っせんとして来るものと思われる。だが、敵の仕懸けに乗ってはならぬ。
陸地
(
くがじ
)
や河川の先陣とは
異
(
こと
)
なれば、ゆめ、先駆けは慎み合おう。
と、なっていたものである。
だが、その席でも梶原父子は 「こたびこそ船勢の
先鋒
(
せんぽう
)
は、ぜひわれらの手勢で」 とは公言していた。
彼らが、先の雪辱を思う気持や義経への対意識は、たれにも読めているので、串崎発向のさい、彼の船列が第一陣を取って進んだのは、べつになんとも見てはいなかった。
── けれど、ここへ来てから、やがて彼らが、全てを無視して、単陣、平軍へ接して行こうなどとは、たれにも、思いもよらなかった。いかに功を急げばとて、余りな横紙破りではあるまいか。
わあっと揚がったどよめきの中には、そういう憤激もあったのである。
だが、すべてではない。
鎌倉直参の御家人、系統雑多な東国武者の間には、ひそかに義経の指令をあげつらい 「── 九郎の殿も、さすが海は
怯
(
お
)
じられたか、敵を見ながら
悠長
(
ゆうちょう
)
な
潮待
(
しおま
)
ちとは、さても、手ぬるさよ」 と、今朝来、いらいらしていた一徹者も少なくはなかったのだ。
とはいえ、梶原ほどな独断に出る勇もなく、義経の旗艦に従い、むなしい
遊弋
(
ゆうよく
)
と、敵のあざけりに
耐
(
た
)
えていた。── ところが今し、梶原勢の一船隊が、とつぜん全陣の一角を脱して、平軍の
挑
(
いど
)
みへ応じて行ったので、爆発的な声となったのは無理もない。彼らにしてみれば、もう、むなしい遊弋には飽いている。潮時刻は、これから、いよいよ
落潮
(
らくちょう
)
を急にして、源氏方には逆潮の不利にはなるが、それも知れたものと、早くも
狎
(
な
)
れて、この海峡路のけわしさも、いつか甘く
観
(
み
)
ていたのである。
そうした
麾下
(
きか
)
の心理を、とっさに、見て取った義経の胸には、おそらく、
「こうなっては、ぜひもない」
とする嘆声と同時に、その
騎虎
(
きこ
)
の勇を、一応、敵へ放ったうえの手段を、さらに
按
(
あん
)
じていたにちがいない。
── ともあれ、進撃の
螺
(
ら
)
、攻め鼓は、鳴りひびき、全軍の
舳
(
へさき
)
は、平軍へ向けられた。
舷々
(
げんげん
)
触れ合うばかりな
逆潮
(
ぎゃくちょう
)
と闘いつつ、義経自身の乗船はいうまでもなく、
艨艟
(
もうどう
)
すべて、
豊前岸
(
ぶぜんぎし
)
へ近づいていた。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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