〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/22 (木)  つ ぼ の うず (一)

── は高くなった。たつこく (午前八時) も、少し過ぎたろうか。
朝の 一時、雨とみえたのも、雲まだらに、空は深い肌をのぞかせ、おりおりの日射しが海峡一面に、まばゆい波光をててた。水は巨大なうつわ の中のもののように絶えず大きく揺れている。
風が変わって来たのだ。陸の磯松は揺れもしていないが、海上には、かなりの風があった。
「や、や。あれ見よ。田野浦の沖を」
「おう、たれの組やら、味方の船勢ふなぜい が、敵へ寄って行くわ」
「しきりに誘いかくる敵のいど みにこた え、ついにこなたからも、一陣、こう へ、迫ったるぞ」
「しわや、人に先陣をゆずりしか」
突如、源氏のどよめきだった。── 義経の乗船を始め諸船もろふね の上から武者声のあらしがわき揚がっていた。わあっと、何度にも、 を置いて、うな づらがうな った。
「やあ、 しからぬ抜け駆けかな。あれや梶原どののひき いる船勢ではないのか」
水夫頭かこがしら の千葉ノ冠者、帆綱頭の水尾谷みおのや 十郎じゅうろう櫓座頭ろざがしら の熊井太郎など、左舷さげん の一つ所に駆け集まって、かぶとの眉廂まびさし に手をかざしあい、
「そうだ、梶原どのと見ゆる」
「やはりそうか。しゃつ、軍監みずから、しめ し合わせの時刻も待たずに」
「出し抜けの先陣振りは、片腹痛い。いや違法だ。陣法破りだ。おん大将判官殿にも、苦々にがにが しげに見ておわさん。なんと指揮を下し給うことか。── あれよ、ほかの味方も、梶原が懸るならばと、にわかに、船脚ふなあし 変えて、列を乱し始めたではないか」
と、気を んだり、地だん踏んで、そして頭上の、やぐらの上を振り仰いだ。
やぐらは静かだった。
四面をかこんだたて の内に、一旒いちりゅう の白旗と、義経の半身が、浅黄色の空へ め込んだもののように、くっきりと る。
「・・・・・」
彼の も、今、人びとと同じ方を見ていた。かくべつ、それに対して色をなした容子ようす もない。
で、そこの将座をめぐ る人びと ── 伊勢三郎、佐藤忠信、那須大八郎、そのほかも、じっと、かたずをのみつつ、義経のくち もとから、うごかぬ眉、きら めくかぶとを、ただ見まもってい、そしてまた、気づかわしげに、田野浦の沖へ、眼を せたりするだけだった。
「三郎。布令をくだせ」
やがての声に、伊勢三郎が 「はっ」 と、前へ出て、
を吹かせまするか」
「そうだ、螺手らしゅ と、旗番をして、全軍へ合図させよ」
「みだりに騒ぐな、陣を乱すなかれとの」
「いやいや、退き貝ではない。── すでに、あのように、はや り乱れたみよし を、ただ抑えても、鎮まるまい。徐々に進み出ん。進めの貝を高く吹け」
意外であった。
たれの眉も、一瞬、予想の れた色めきに吹き抜かれ、同時に 「── すわ、開戦」 と、自分の力でもないあるものに体をはじ き上げられた。
たちまち檣頭しょうとう に流れて見える三筋の細長い色布の旗が何か語った。いわゆる旗合図か。
また、螺手らしゅ は、みよし に立って、貝を吹いた。
貝の音色は、ひとつの息が、ひとつの単語をなしてい、水軍法では、それを螺譜らふ と称している。螺譜は、秘密な約束と創意による独自な調しら べをもって吹かれるので、あながち、敵味方一葉ではない。
このはか一船だけの合図にはかね を使う。士気の鼓舞には、陸戦と同じ攻めつづみも打ち鳴らす。武器、軍楽、水軍の組織、あらましは宋朝そうちょう の風を真似まね びたものといってよい。ちがうのは、柳桜やなぎざくら の都を持つ国の生んだよそお いの優雅なことであり、またそれらの物具もののぐ に身をまとう東国武者の雄心や、平家の公達ばらの、かなしくも いて自分をたけ くし、一門ことごとく死してもと、今日を退 かずにいた姿であった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next