帆綱頭
の水尾谷みおのや 十郎じゅうろう
と、水夫頭かこがしら の千葉ちば
ノ冠者かじゃ 胤春たねはる
とが、船上の兵を叱咤しった の下もと
に指揮してい、また螺手らしゅ
は、望楼の上から息のかぎり、なお法螺貝ほらがい
を長々と吹きつづけている。 大八郎は、やぐら組の一人なので、ただちに、そこの櫓やぐら
へ上がって行った。すでに、義経も、眉を澄まして立っていた。 ながめやれば ── ここ串崎の北磯にある船影は今、一せいに、檣上しょうじょう
へ帆を張りあげ、そして徐々に、ゆるぎ出る方向へ、その帆綱を操縦しあっていた。 巨大な帆影と帆影は、幾段にも重なりあい、その序列が成ると、先頭の船から船脚ふなあし
に白波を見せはじめ、舳みよし
を迂回うかい して、串崎の突端から西へ大きく曲がってゆく。 先陣は、梶原景時父子とその一族の船列が、およそ百余艘。 二陣は、副将の田代冠者信綱だった。それに佐々木盛綱、高綱、安田三郎義定などの八十余隻。 次に、中軍の大将軍船。 いうまでもなく、それには義経が乗っていた。庄ノ三郎忠家、大内太郎おおうちたろう
惟義これよし 、勅使河原権三郎などの諸船であり、また伊予の河野水軍も、颯々さつさつ
とつづいてゆく。 特長のある田辺水軍は、それよりもなお、幾段か後の方だった。 さらにまた。 時を同じくして、満珠・千珠の二島の蔭から、鵜殿うどの
隼人助はやとのすけ の熊野水軍と、串崎舟の一隊が、漕こ
ぎ出しているのが見える。それはいずれも、船脚ふなあし
の早い軽艇であった。 「── 風は追い風」 義経は頭上の帆鳴りを仰いで、 「田野浦の敵勢も、はや、われらの動きを知った様子。── もうよいぞ、船脚はちと早過ぎる。帆を下ろして、すべて、櫓ろ
ばかりにせよ」 と、楼上から、命令した。 旗艦が、帆を下ろすと、先陣後陣の船影もみな、それに倣なら
った。あわただしい壮観である。 おりから東方の水平線には、朝が燿かがや
き初めて来た。その辺に、厚い雲が多いせいか、太陽は相すがた
を見せず、春も三月なのに、寒々と戦そよ
ぎ立った海うな づらだった。いつとはなく、一波一波が、朝の光をひらめかしてくる。──
ただ、長門側の壇ノ浦一帯の山蔭だけが濃く暗く、そして、不気味なほど、ひそとして見えた。 「おう、平家もあれに」 一瞬、静止した源氏の船陣は、おのおのの舷側げんそく
や、櫓上から、ひとしく眼を西岸の一角、田野浦へ放ちあったにちがいない。 かなたは豊前の岸である。ちょうど、文字ヶ関の和布刈
めかり の御崎みさき
からやや南へ寄った所。そこに、平家は全水軍の戦列を布し
き、夜来、万全の備えを終わって、待ち受けていたらしい。 「── ござんなれ、いつなりと」 という気勢が、おびただしい船影と、ひるがえる無数の紅旗にもながめられた。 田野浦の地勢は、東へ向かっているので、陽ひ
が昇るにつれ、御座船の日月じつげつ
の幡ばん や旌旗せいき
まで、あざらかに、燿かがや いて見えたが、源軍の船影は、朝陽を負っているので、平家方から見れば、おそらく、ただ団々として、海をはう黒雲のようにしか見えなかったことであろう。 |