〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/21 (水) たてひょう  (二)

すぐ、義経の床几の場に行って、 「大八郎、お使いとして、それぞれの船勢ふなぜい の大将へ、令書をさずけ、おことばを伝えて、ただ今、立ち帰りましてございまする」
義経のそばには、佐藤忠信、江田源三、伊勢三郎、岡部六弥太、三浦義澄、鷲ノ尾経春、渡辺眤わたなべむつる 、亀井六郎、鈴木重家、深栖陵助ふかすのりょうすけなどのともがら がその床几を取り囲んでい、明けやらぬ雲を仰ぎながら、おのおの、眸を吹き がせていた。
「大八か、大儀」
義経は、そこから一顧いっこ を与えて。
「そちも、すぐ腰糧こしかて (兵糧) をとれ。はや出勢しゅつぜい の時刻に、まもないぞ」
「はっ」
すでに船上は、その準備で、兵も部将も大童おおわらわ の様子である。
大八郎は、あわてて穴倉のような口から、船底へ下りて行った。そして腰の兵糧ひょうろう を解いた。夕べのうちに、今日の朝昼あさひる の二食分が各将に渡されていた。── 暗い中で、もそもそひとり食べはじめる。── 次の一回分を食うときは、もう戦場の血しおの中であろうかと思う。
船蔵には、矢束やたば の山や、雑多な武器、糧米などが、積み込んである。大八郎は、かて を食い終わるやいな、船尾のいとど狭い一室をのぞき込んだ。そして、
兄者人あにじゃにと
と、小声で呼んだ。
兄の余一は、そこに謹慎していた。
戦を前に、潮風の前にも立てず、こんな船隅ふなすみつつし んでいなければならない兄の胸は ── と、大八郎の眼は、すぐ涙になりかけていた。
「お、弟か」
余一は、碇綱いかりづな の代え綱に、腰かけてい、あたりは暗いが、案外、明るい調子で言った。
「いよいよ、御出陣らしいなあ。さっき、貝の布令もあったようだ。そんなさいに、これへ降りて来てはなるまい。大八、わしに心を引かれてくれるな」
「はい」
「思えば、東国を立つみぎり、鎌倉殿の命で、梶原の麾下に配されたのが、そもそも、武運つたないことであったよ。・・・・が、屋島では、とまれ扇のまと あて、弓矢に恥は取らなんだゆえ、遠い故郷へ聞こえても、いささか面目は立ったというもの」
「そうですとも、兄上。卑怯ひきょう な振舞があって謹慎を命じられたわけではんく、むしろ、御名誉があだになったともいえまする。決して、お気を腐らせずに」
「案じるな、わしは横着者ぞ。もう身の処置は腹にきめておる」
「えっ。御処置とは」
「もし、今日の御合戦に、味方が不利に落ち入りなば、謹慎も破って、働きに出る。そして、あるいは、判官どののためには討死もしよう。・・・・したが、味方が勝ちいくさ ならすきを見てくが へのがれ、そのまま、ふるさとの那須へ帰ろうと思う。一生浪人して送ろうと思う」
「でも後日、鎌倉どののおとがめでもあったらば」
「弓矢を捨てればよいまでのことではないか。弟よ。そちも今日の合戦には、この兄の分までもと、ひそかに死も覚悟していようが、めでたく、今日を過ぎなば、ただの一浪人に返り、平家の内にあると聞く兄たちの生死をただし、もし生き残っていたら、ともに手をたずさえて故郷へ帰って来いよ。家はひとりが継げばよい。そして源氏平家と、生木なまき かれることもなく、ひとつ土を、せめて余生には、仲よくたがや そうではないか」
「はい」
そのとき、すぐ頭に上で、螺手らしゅ の吹く第二の貝の音が高くひびいた。
「あっ、いよいよ、出勢です。では兄上」
「早く行け。── さりとて弟、今日が最後の戦ぞ。人におくれは取るな」
「仰せまでもござりませぬ。おさらば」
大八郎の影は、船底から躍り上がるように出て行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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