義経の旗艦から第一の貝は鳴ったが、それは、準備の布令
である。出動には、まだ少し間があった。依然として、波間は暗い。 使者の那須大八朗は、しの大将船へさして、漕こ
ぎ戻っていた。── が、こんな非常な場合だけに、たった今、田辺水軍の主船の上でふと触れた奇異な思いがいつまでもぬぐい去れずにいた。 彼は、そこで、ただならぬ女の叫びを耳にしたし、湛増法印が黒髪を乱した女を横抱きに、あわてて船房へ走り込んだ影も見たような心地がする。
「── いったい、あれは何事であったのか?」 と、いぶからずにいられないのだ。 しかし彼はなにも、そんな使命以外の目撃などを、主君義経の前に、復命しようという気では毛頭ない。 ただ、彼として、懐疑にたえないだけだった。 が、考えてみると。 戦陣もまた、人間同士の集合であるに過ぎない。人間の集まるところ、表裏をつつみ、必ず何か、葛藤かっとう
をもっている。 当然、合戦のうえでは、敵味方、大きく二分されざるを得ないが、味方内にも、平常から、さまざまな内輪の闘争はつつまれていた。 たとえば、主君義経の周囲にも。 また、大八郎自身の身ぢかにさえ、なくはない。 その生々なまなま
しい実例を、彼は彼の兄、那須余一宗高に見た。梶原の麾下きか
を嫌って、屋島では義経の手に属して先陣していた余一は、例の扇の的を射たりしたことから、 「目ざましき弓取りよ」 と、一躍その名をとどろかせた。 けれどその後
── その誉ほま れに報むく
われたものは、なんであったか。 梶原の激怒と、軍罰の適用だった。またあれほど、余一の弓を、やんやと喝采かっさい
したそのおりの諸将も、以後は、余一の名誉への妬ねた
みも手伝ってか、余一の、よの字も口にする者はない。ほとんど昨日の人の如く、みな忘れ顔ではないか。 ひとりその後も余一を庇かば
うかに見える人は、義経であった。梶原が 「── 鎌倉表へ申して、公おおやけ
にせん」 と言うのをなだめて、なお自分の配下におき、梶原のてまえ、謹慎きんしん
を命じ、表面に出さないだけの処置ですましてあるのだった。 もっとも、そのことがなくても、余一は、今日の晴れの戦いには、しょせん、陰の役にまわされて、矢前の働きに立つのは、免ゆる
されなかったかも知れない。 なぜなら、大勢の那須兄弟のうち、六郎実高、四郎久高、三郎幹高みきたか
の三人までが、平家方にいることは、梶原にもたれにも分かっていたからである。 もちろん、義経も知っていよう。考えようによっては、余一の謹慎は、そういう複雑な立場だけに、あのこれ以上の誤解を受けさせまいとする義経の温かな庇護ひご
かも知れないのだ。 少なくも大八郎は、そう解釈している。 そして、戦陣の裏にも、人間当然なもつれが潜み、男と男の嫉妬しっと
には、女以上の嫉妬が戦っていることなども、ここ幾月かの戦陣生活で如実にょじつ
に教えられて来たと思う。 「・・・・とすれば、なにも、湛増法印ひとりを怪しむには足らぬ」 彼の考えが、そんなところへ行き着いた時、その使者舟も、ちょうど旗艦の横へ着いていた。 |