誓紙へ筆をとれば、いかに後日の禍
を約すようなものか。また、これまでの輝かしい戦功や明日の武勲も、みずから泥土へ抛なげう
つような結果になるかを、彼の理性は、知っていた。 ── が、義経は、望楼へのぼって、そこの将座へ、ゆらと、腰を落すと、もう迷ってはいなかった。 「何を怯ひる
む。・・・・それは善だ。大きな善根ぜんこん
となるものを」 一颯いっさつ
の風が、彼の面おもて を洗った。 彼は、屋島の矢栗やぐり
の山上で、またべつの日、白峰しらみね
のいただきで、自分にかえりみ、世の流転るてん
を観じ、深胸にきざんだはずのことを、今また、思い出していたのである。 兄頼朝は知らず、弟義経は、すでに屋島以後において、平家を追っても、二十余年も前の、父義朝の復讐ふくしゅう
などという一念を追ってはいない。平家であるからには、女子どもにいたるまで。倶とも
に天を戴いただ かざる仇敵きゅうてき
であるなどとまでは、彼には憎しみきれないのである。 ── ただこのさいの一戦は、それの犠牲をもって、世もしずまり、諸民泰平になるならば、それも弓矢の功力くりき
、武門の当然と信じるからであった。また、兄頼朝には一業の扶たす
けをささげ、院いん 後白河ごしらかわ
の御新任にもこたえ奉るものと思われるからであった。 ── だが。 それは、白峰の山風の中で考えさせられたことであるが、人の生涯に尊いものはいったい何か。無数の人びとが当然な白骨となるまでたどりにたどった流転るてん
の生涯を見るならば、 「栄爵えいしゃく
、何かせん。軍功、何かあらん」 と、思わずにうられない。 それの欲しい者は、かすかな腐肉をもった牛骨を争う野良犬のように、世の四つ辻で爭がよい。──
はかない、浅ましい、そんな生涯は遂げたくはあるまいにと、白峰の松風は、自分へ語った。 おなじ声が、今、潮のうちから聞こえて来る。 「・・・・・・」 潮のひらめきか、義経の面に、ふっと、明るい笑みに似た影が通りぬけた。 気が楽になった
── とするように、その姿も、ゆるやかに、望楼の横木へ片肘を乗せて、どこか、遠くを見まもった。 ── 静しずか
。 彼女を思い出す時の眸であった。 都の空で自分を待ちわびているであろう静よ、待つがよい。 ここ、最後の大任だに果たし得たら。 そして、世が泰平になったらば。 静よ。 おまえと二人で、花作りでもして暮そうよ。 位階いかい
勲爵くんしゃく 、そんなものは、おまえも望んではいないだろう。 家に、鼓があり、庭に花が作れるぐらいな坪さえあれば。 こう、彼の気持が、解ほぐ
れてきたらしい。何を悩み、何を惑ったか、ついさきいまでの迂愚うぐ
がおかしくなっていた。 泰平、それだに地上へ返って来れば、院も兄も御満足してくださるに違いない。ひいては、その寛大な恩沢を、平家の女人や残党へも恵んでくださることに吝やぶさか
なはずはない。 |