〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/20 (火) すみ れ 、べん けい (三)

「・・・・かつはまた」
と、それに付随して、義経は理由づけた。
神器をつつがなく平家の手から取り返すために、自分が独断で誓書を与えるぐらいなことも、よも、おとがめはないであろう。同時に、罪もない平家の女人にょにん や老幼をあと うかぎり助けてとらすことは、自分の慈悲と言うよりは、院、鎌倉どのの善根ぜんこん として、後日の泰平を、いとどなご ませるものでもあるまいか。
「── 殿。持参いたしまいた」
いつか、床几しょうぎ の前に、弁慶が来て、ひざまずいていた。
「お。神文しんもん に用いる熊野の誓紙、あったか」
「殿より、なんじは、祐筆ゆうひつ の役目をせよと申しつかりましてより、何かとそれらの調ととの えは、つねに心しておりまする」
すみ れ、弁慶」
義経は、すぐ筆をとった。
そして熊野の誓紙へ、こう書いた。

一約の事、戦後日を経たりといへ、違背あらじ、八幡照覧。違約あらば、九天の神仏、われを罰せよ。
                            判官義経
    寿永四年三月二十三日
あて名は神文の面には書かず、それの封紙に書いた。
「見たであろう、弁慶」 と、それを彼にさずけて 「── 下に待たれておる讃岐どのへ渡して進ぜよ。一刻も早く、それをたずさ えて、時忠どのの許へ帰れと」
そしてまた、何か思案の末、
舟路ふなじ は危うい、万一、平家方の手に捕われなば悔ゆるも及ばぬ。馬にて陸路くがじ を急ぎ給えと申せ。── が、くが にも味方の兵が要所を固めておれば、弁慶、そちが御供して、赤間ヶ関までお送りしてあげい」
「心得ました」
「弁慶は、下へ下がったが、間もなくまた、登って来た。そして、時実が誓書を見て、泣かぬばかりなよろこびだったことやら、桜間ノ介が、兄の阿波民部も内応して、明日は、源氏方へ寝返りする手はずとなっていることをお伝えして欲しいと言ったことなど、弁慶までが、狂喜をともにして告げた。
「そうか。そのように、よろこばれたか・・・・」
義経も、そぞろ、うれしげに。
「桜間ノ介には、明日の役目もある。この舟に残して行け。・・・・が讃岐どのは、一刻も早いがよいぞ。そちが付き添い、 う、山路を越えて、赤間ヶ関へ急げ」
「はっ。では」
弁慶は、立ちかけたが、
「おいいつけに、不服を鳴らすのではございませぬが、かかるまに、夜も白み、殿の御船、すべての船勢、ことごとくここを去らば、弁慶はひとりくが に置き残されねばなりませぬ。またしても、あすの船戦ふないくさ にも、この弁慶は、会わず仕舞じまい いでござりましょうか」
「おろかな、ことばを」
と、義経は叱った。
「さほど、合戦に会いたくば、長門の岸より、ひろ い舟にても、 ぎ帰るに、なんの造作。── 幼時には、しお ふく鯨の背にも乗って仕留止めたりと、常日ごろ、よう自慢する熊野生まれの男が、なんのたわ言ぞ。── はや行け、弁慶。ゆめ、讃岐どののお身に、つつがあらすな」
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ