〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/20 (火) つめ む (五)

無理はない、義経も思う。
それも時忠父子の一身上などという小さいことではないのだ。
相互の間に、黙約として懸けられている問題は、余りにも大きかった。
神器のこと。
みかど、女院、その他の人命のこと。
ひいては、平家滅亡後の、未来へかけてのことまでが、含まれているのである。
あの思慮ふかい時忠が 「決して、君を疑うにはあらねど、かほどなこと、ぜひ一筆、熊野誓紙にお墨をして び給え」 と、さきには桜間ノ介を通して、今また、子息の時実に危険をおかさせて、執拗しつよう にまで乞うてやまないのも、道理なのである。
── けれど、義経の立場もつらい。
自分は兄頼朝の一代官に過ぎぬ。鎌倉どのの意もまたず、後日に残る誓書を、平家のたれへであろうと、書くわけにはゆかないと思う。
また、軍監の梶原という者がある。梶原へは平大納言との密約のことは、一切話していなかった。はか れば、おそらく彼は口を極めて反対するだろう。すでに勝者のおご りをもって平家にのぞんでいる彼だ。── ほろ ぶ者から条件を付けられたり、後日の約を与えたり、そしてほろ ぶ者の眷族けんぞく などへ憐愍れんびん をかけてやるような彼でないことは分かりすぎている。
で、すべては、彼ひとり苦しい胸を抱いた。
「さても、難儀。いかにせば?」
義経は、はたと、眉を沈めた。
何か非常な窮境に立つと、爪を噛む癖が年少のころにはあった。その幼い癖が、ゆくりなくも、じっと考え込む彼の姿にふと出ていた。
「讃岐どの」
やがて、熱を病む人の吐息のように。
「もし、あくまで、誓書のこと、聞き届け出来ぬと義経が断ったら、いかがされるお考えか」
「・・・・なんとしても、お聞き入れを得られぬなれば」
時実は、おうむ返しに言いながら、その面をみるみる蒼白そうはく に、眸は、相手の顔をとらえたまま、
「ぜひもありません。武夫もののふ ならねば、腹切るすべは存じませぬが、身を海に投じ、明日の戦を前に、父母のさきがけ いたしまする」
「いや、いや」
義経は、いそいで、かぶりを振った。そう察してはいたが、聞かされるのは、辛かったからである。
「あなたのお心を問うのではない。大納言時忠どのには、もしやの場合、いかなる後図こうと やあるとお きしたのだ」
「父の存念はわかりませぬ。ただ、かねてより、父は出家入道にゅうどう こそいたさねど、生涯は閉じたものと、思いきめておりまする。母のそつつぼね とて、おなじです。死なんは、いつでもと、覚悟に不足のない両親とだけは、しかと申し上げられましょう」
すると、時実のそばから、桜間ノ介も、ことばを添えて、
「じつは、これへ参る直前、大理だいり どの (時忠) にも、船島を脱け出て、赤間ヶ関の山手、臨海館のあと へ、お身を隠されました。・・・・すでに、平家の内にては、明日を前に、時忠御父子を、いっそ き者にせんという魔手のうごきが見えますので」
「では早や、薄々、明日のはかり を、知ったとみゆるな」
「いやいや、それとはまだ覚ったわけではありませぬ。── 日ごろ、時忠卿を憎しみ給う 内大臣おおい殿との 、能登殿あたりが、どさくさまぎ れに、自暴のお振舞に出たものと思われまする。今宵十数名の刺客が船島に現れ、すんでに危ういほどでおざった。そのため御居所変えにござりまする」
こう聞いては、なおさら義経の胸は氷室ひむろ になった。思案はこお った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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