無理はない、義経も思う。 それも時忠父子の一身上などという小さいことではないのだ。 相互の間に、黙約として懸けられている問題は、余りにも大きかった。 神器のこと。 みかど、女院、その他の人命のこと。 ひいては、平家滅亡後の、未来へかけてのことまでが、含まれているのである。 あの思慮ふかい時忠が
「決して、君を疑うにはあらねど、かほどなこと、ぜひ一筆、熊野誓紙にお墨をして賜
び給え」 と、さきには桜間ノ介を通して、今また、子息の時実に危険をおかさせて、執拗しつよう
にまで乞うてやまないのも、道理なのである。 ── けれど、義経の立場もつらい。 自分は兄頼朝の一代官に過ぎぬ。鎌倉どのの意もまたず、後日に残る誓書を、平家のたれへであろうと、書くわけにはゆかないと思う。 また、軍監の梶原という者がある。梶原へは平大納言との密約のことは、一切話していなかった。諮はか
れば、おそらく彼は口を極めて反対するだろう。すでに勝者の驕おご
りをもって平家にのぞんでいる彼だ。── 亡ほろ
ぶ者から条件を付けられたり、後日の約を与えたり、そして亡ほろ
ぶ者の眷族けんぞく などへ憐愍れんびん
をかけてやるような彼でないことは分かりすぎている。 で、すべては、彼ひとり苦しい胸を抱いた。 「さても、難儀。いかにせば?」 義経は、はたと、眉を沈めた。 何か非常な窮境に立つと、爪を噛む癖が年少のころにはあった。その幼い癖が、ゆくりなくも、じっと考え込む彼の姿にふと出ていた。 「讃岐どの」 やがて、熱を病む人の吐息のように。 「もし、あくまで、誓書のこと、聞き届け出来ぬと義経が断ったら、いかがされるお考えか」 「・・・・なんとしても、お聞き入れを得られぬなれば」 時実は、おうむ返しに言いながら、その面をみるみる蒼白そうはく
に、眸は、相手の顔をとらえたまま、 「ぜひもありません。武夫もののふ
ならねば、腹切るすべは存じませぬが、身を海に投じ、明日の戦を前に、父母の魁さきがけ
いたしまする」 「いや、いや」 義経は、いそいで、かぶりを振った。そう察してはいたが、聞かされるのは、辛かったからである。 「あなたのお心を問うのではない。大納言時忠どのには、もしやの場合、いかなる後図こうと
やあるとお訊き きしたのだ」 「父の存念はわかりませぬ。ただ、かねてより、父は出家入道にゅうどう
こそいたさねど、生涯は閉じたものと、思いきめておりまする。母の帥そつ
ノ局つぼね とて、おなじです。死なんは、いつでもと、覚悟に不足のない両親とだけは、しかと申し上げられましょう」 すると、時実のそばから、桜間ノ介も、ことばを添えて、 「じつは、これへ参る直前、大理だいり
どの (時忠) にも、船島を脱け出て、赤間ヶ関の山手、臨海館の址あと
へ、お身を隠されました。・・・・すでに、平家の内にては、明日を前に、時忠御父子を、いっそ亡な
き者にせんという魔手のうごきが見えますので」 「では早や、薄々、明日の計はかり
を、知ったとみゆるな」 「いやいや、それとはまだ覚ったわけではありませぬ。── 日ごろ、時忠卿を憎しみ給う 内大臣おおい
の 殿との 、能登殿あたりが、どさくさ紛まぎ
れに、自暴のお振舞に出たものと思われまする。今宵十数名の刺客が船島に現れ、すんでに危ういほどでおざった。そのため御居所変えにござりまする」 こう聞いては、なおさら義経の胸は氷室ひむろ
になった。思案は凍こお った。
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