「・・・・殿、殿。せっかく、おやすみの御様子ですが」 そのとき、たれか、船房の戸を軽くたたいた。 義経は、潮窓へ顔を寄せ。 「弁慶ではないか。何用ぞ」 「ただ今、艫尻
の下へ漕こ ぎ寄せて来た一舟の上から、桜間ノ介が、ぜひお目にかかりたいと申しておりますが」 「桜間ノ介なれば、仔細しさい
はない。これへ通せ」 「ところが、もうひとり若い平家人へいけびと
を連れておりまする」 「平家人とは、たれなるか」 「平大納言どのの御子息。時実どのなりと申されますが」 「なに、時忠どのの子息讃岐どのが、自身い見えか。こは、ただ事にあるまじ。疾と
う疾と う、お連れ申せ」 今し、壇ノ浦への出陣を、寸前にしていた矢先である。 平大納言の小時実が、自身、危険を冒して、これへ来たと聞き
「── こは、ただ事にあるまじ」 と、義経が顔色を変えたのも無理はない。 好事魔多し、計はかり
は寸前に破れやすいものという。。 「さては、破綻はたん
か。事、露見して、なんぞ凶事でも」 と、彼の胸は早鐘をついている。 かねがね、桜間ノ介を使いとして、平大納言との間には、微妙な計が示し合わせてある。もし、それの発覚から、平家方が裏面の計を知ったなら、明日の戦略も、急速に変更しなければならない。しかも、出動直前の今、ほとんど、そんなことは不可能に近い。 ──
が、彼の杞憂きゆう は、まもなく、思い過ごしであったと分かった。 やがて時実に会い、時実の口から、切々な願いを聞いた後にである。 だが、一つの杞憂をぬぐわれた義経は、すぐ、次の杞憂に当面していた。 時実は、父時忠の意を伝えて、 「なにとぞ、一筆いっぴつ
の御誓書なりと、君と父とのお約束つがえ
のおことばを、神文しんもん に懸けておしたため給わりとうぞんじまする。──
父が申すには、それいただいて、疾と
く立ち帰れ。やがては、国もなく、国はあっても物言えぬ敗亡の遺臣となる身、誓書を持たでは、後日、何を訴えようと、泣き言としか聞かれまい。── たって判官どのより一筆の御誓書を乞うて参れと、かたく申しつかって参ったのです」 と、眸ひとみ
から全身にまで、懸命をこめた姿を、義経の前に据えて言った。いや頼みだった。 |