〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/19 (月) つめ む (四)

「・・・・殿、殿。せっかく、おやすみの御様子ですが」
そのとき、たれか、船房の戸を軽くたたいた。
義経は、潮窓へ顔を寄せ。
「弁慶ではないか。何用ぞ」
「ただ今、艫尻ともじり の下へ ぎ寄せて来た一舟の上から、桜間ノ介が、ぜひお目にかかりたいと申しておりますが」
「桜間ノ介なれば、仔細しさい はない。これへ通せ」
「ところが、もうひとり若い平家人へいけびと を連れておりまする」
「平家人とは、たれなるか」
「平大納言どのの御子息。時実どのなりと申されますが」
「なに、時忠どのの子息讃岐どのが、自身い見えか。こは、ただ事にあるまじ。 う、お連れ申せ」
今し、壇ノ浦への出陣を、寸前にしていた矢先である。
平大納言の小時実が、自身、危険を冒して、これへ来たと聞き 「── こは、ただ事にあるまじ」 と、義経が顔色を変えたのも無理はない。
好事魔多し、はかり は寸前に破れやすいものという。。
「さては、破綻はたん か。事、露見して、なんぞ凶事でも」
と、彼の胸は早鐘をついている。
かねがね、桜間ノ介を使いとして、平大納言との間には、微妙な計が示し合わせてある。もし、それの発覚から、平家方が裏面の計を知ったなら、明日の戦略も、急速に変更しなければならない。しかも、出動直前の今、ほとんど、そんなことは不可能に近い。
── が、彼の杞憂きゆう は、まもなく、思い過ごしであったと分かった。
やがて時実に会い、時実の口から、切々な願いを聞いた後にである。
だが、一つの杞憂をぬぐわれた義経は、すぐ、次の杞憂に当面していた。
時実は、父時忠の意を伝えて、
「なにとぞ、一筆いっぴつ の御誓書なりと、君と父とのお約束つがえ のおことばを、神文しんもん に懸けておしたため給わりとうぞんじまする。── 父が申すには、それいただいて、 く立ち帰れ。やがては、国もなく、国はあっても物言えぬ敗亡の遺臣となる身、誓書を持たでは、後日、何を訴えようと、泣き言としか聞かれまい。── たって判官どのより一筆の御誓書を乞うて参れと、かたく申しつかって参ったのです」
と、ひとみ から全身にまで、懸命をこめた姿を、義経の前に据えて言った。いや頼みだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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