といって。 平家方にも、さまざまな違和
が包蔵されているように、源氏の内部もまた、決して義経の下に、整然と一本になっていたのではない。 そう考えられる第一の不審は。 義経と並び、ともに東国勢の一方の大将軍といわれる三河守範頼
(蒲冠者かばのかじゃ
) が、まったく、動きを見せないことである。 豊後に渡って、九州の一角にあることだけは、確実らしい。 九州に一戦を引いて、彦島の平家を、牽制けんせい
しているものと見れば見えないこともないが、それもあまりに消極的だ。── なぜ、文字ヶ関、柳ヶ浦など、豊後の海辺まで、その旗幟きし
を見せて来ないのか。 義経は、三河どのの真意が、どこにあるのかを、疑っている。 「── よし船はなくても、豊前の岸に、その白旗を見せ給うだけでも味方にとっては大きな助力。敵にとっては、心を寒うさせるものを」 と、遺憾でならない。 しかし、梶原だけは、多少その消息を知っているはずだった。彼の許へは一、二度、範頼から使いもあった。だが、義経には何も語らず、義経もそれには触れないのであった。いったい、九州にいるのかいないのか、まったく、奇妙な友軍というほかはない。 疑えば安からぬ心地して、 「──
この義経が平家の勝つのを、喜ばぬ者が、味方の内にあるのか」 と、思わされるおりさえある。 が、義経は 「浅ましい心の動き」 と、むしろ自分に恥じ
「そのようなこと、あり得ようはずはない」 と、かたく思い直すのだった。 彼は敵以上、味方の “割れ” を恐れた。功名争いや意地ずくの、我勝ち態勢で明日へのぞんだら、神器の奪取はおろか、勝利もどうかと、危ぶまれるからである。それには、梶原を立てておくことだと知っていた。──
で、その夜の最終会議も、梶原にとっては、充分、得心とくしん
のできる結論のもとに終わっていたろうことは、ほぼ疑う余地もあるまい。 やがて、梶原父子をはじめ、諸将の影は、船房から外へ出て来た。そして口々に、 「さらば。明朝」 「晴れの海原うなばら
にて」 ── さらば、さらば、と言い交わしながら、おのおのの船へ帰って行った。 卯う
ノ刻こく 前の出陣なら、これから各自の船へ戻ってからも、優に手枕の一睡は出来る。 義経もまた、その後で、小狭い一房にはいって身を横たえた。ただのひとりに返って、四肢しし
にノビを与えると、なんとなく 「・・・・ああ」 と肋骨の下から大きな息が思わぬ声になって出た。 「ああ」 という一呼吸の中には、つかの間、体の緊縛から解ほぐ
れ出た彼の万感が流露していた。 「功名何ものぞや」 という自嘲じちょう
のあふれか。 「── 静しずか
、恋し」 とつぶやいたものなのか。彼以外には、知るよしもない。 |