たれもが、心では望んでいるのだ。口に出せないだけである。 にもかかわらず、梶原がたって
「── 自分に」 と申し出た人もなげな気持は、これまた、たれにも分からないことはない。 屋島では、屋島も陥ちてから二日も過ぎて、遅れて戦場へ着いた彼だった。 彼自身は、そんなことを、間が悪そうに、いつまでも煩
っている男ではない。けれど嫡子の源太景李、次男の平次景高、三男の三郎景家などは、以後、肩身の狭い思いを持っていたことだろう。 「── 先の汚名を、長門の浦でそそがねば」
と、父の背後で、躍起やっき となっていたかもしれない。 古記によると、この時、梶原の乞いを、義経は、一言のもとに、しりぞけたとある。 「義経がなくば知らぬこと、義経があるからには」 と、言ったのに対し、梶原が、 「殿は、大将軍、大将軍たる人は、中軍にあるべきもの」 と、きめつけた。 「それ、思いもよらず
──」 と、義経はせき込んで 「われはただの一御家人、鎌倉どのこそ、大将軍とは申すなれ、義経も和殿輩わどのばら
もおなじ者よ」 と、あくまで、先陣の役を、譲ゆず
ろうとしない 業ごう を煮に
やした梶原は、 「天性、この殿は、侍の主しゅ
とはなり難し」 と、放言した。聞きとがめて、義経もまた、 「申せしな梶原、和殿こそ、日本一の烏滸おこ
の者 (ばか者) かな」 と、ののしり返した。 そして、義経が太刀へ手をかけると、梶原も一そう激して、 「こは、なんとなさる。この梶原は、鎌倉どのの他に、主は持たぬぞ」 と、同様に、陣刀の柄をにぎりしめる。 一座騒然。──
梶原の方には、彼の子息や家臣が楯となって寄り合い、義経の身には、弁慶、忠信、伊勢三郎などがこぞり立って、あわや味方割れを見ようとした。しかし三浦ノ介義澄や土肥実平が、極力、相互をなだめたので、からくも事なきを得、やっとその場はおさまったというのである。──
古典平家もまたそういう風に書いている。 両者の不和は隠れもないことだが、といって以上のような喧嘩沙汰までがあったとは思われない。思うに、梶原の三人の子息や将士が、屋島の名折れを、明日こそは取り返そうと、気負っていたので、自然、梶原自身までが軍監の地位を忘れて、積極的に、先陣の役を望んで出た程度かと考えられる。 そして、おそらくそれは、義経に容い
れられたのではあるまいか。なぜなら、味方割れまでして彼の望みを拒こば
む理由は何もないからである。 |