妙に赤っぽい光と異臭とは、灯皿
の魚油のせいであろう。その一燈一燈から、烏賊いか
墨ずみ のような煤すす
もさかんにいぶり立っている。 広くもない船房の内だ。たちこめる魚油が諸将の陰影をよけいに濃くし、たれがたれともさだかでない。ただ、正面の義経の顔、梶原の顔、左右へ詰めあっている横顔やら物いう顔など、顔ばかり赤々と浮いて見え、満座の鎧具足よろいぐそく
がチカチカ微光を放ちあった。 「── 思えば、返す返す惜しい日を逸したものだ。今日こそは、敵の屋島へ迫るべき日であったものを」 梶原が、口をあいて、こういいぬく。 さっきから、彼が繰り返して、残念がっているところは、 「今夕、陸くが
の味方が、赤間ヶ関へ攻め入り、すでに彦島の喉口のどぐち
へ迫ろうとまでしたのに、なぜ陸勢くがぜい
をひきあげ、わざわざ、敵に備えの暇を与えたのか」 と、いうことらしい。そして、 「もし、あのさい、水軍も進み出て、陸くが
の味方と力をあわせ、同時に、彦島を衝つ
いていたら、おそらく平家は一挙に覆滅し得たろうに、可惜あたら
、今日をむなしくせしことよ」 と、舌を鳴らしてやまないのである。 いいかえれば、義経の指揮判断の誤りを衝つ
き、軍監として、その責めを問うものであるだろうか。 義経はと見れば、悔いる風もない。一応、耳は傾けていたが、反撥もせず、ただ 「聞きおく」 という態度に見える。 しかし、副将の田代冠者以下、諸将たちは、おおむね、梶原と同意見らしく、 「いつに似合わぬこの君の二の足かな?」 といいたげな、いぶかりを、義経の面おもて
へ、そそぎあっていた。 一ノ谷、屋島、また宇治川。義経の戦の手口は、いつも疾風迅雷しっぷうじんらいである。敵を直前に、こう二や夜もためらっていた例ためし
はない。 梶原に次いで、やがて諸将の間からも、同様な声が出た。 義経からも何か釈明がなければすむまい。で、彼もついに、一言した。 「それよ。院の御命ぎょめい
として、三種の神器を無事に都へ還かえ
せ、との仰せ付けだになくば、合戦の仕方はいとやすいことだ。したが、平家方もこのたびは、充分、肚はら
を決めていよう。今はこれまでと見、一門最期さいご
の淵ふち にのぞむさいには、必定、神器もろとも、身を沈めんと、覚悟しおうておるに相違ない。──
その平家から、神器をつつがなく奪と
り上げ、敵を完膚かんぷ なきまで討ち滅ぼすということは、思えば思うほど、むずかしい」 義経は、また、梶原へ眸を向けて。 「・・・・さるがゆえに、陸勢くがぜい
にも、珠を目がけて、珠を踏み砕くな、魚の網をしぼつが如くせよと、命じたわけだが、もし其許そこもと
に、べつに良策でもあったら、この場で聞かせよ。いかにせば、神器を無事に奪って、しかも彼を滅ぼすことが出来るか。其許の知略のほどももらしてほしい」 それには、梶原も黙ってしまった。 もちろん諸将のあいだにも
「── 院の特別なるお旨」 は充分知れ渡っていたはずである。が、とかく戦場の第一義は、生死と功名とだけに限られやすい。いわれてみれば ── と今さらのように、明日の合戦のむずかしさを皆、思い直した風だった。 すでに、この夜、 「──
平家方は、はや、田野浦たのうら
まで、第一陣を進めて来た。その敵へ接して、水軍と水軍との、矢交やま
ぜが開かれるのは、明朝の卯う
ノ刻こく (午前六時)
前後ぞ」 と帷幕いばく
のしめし合わせもついていたのである。 これは、その日、義経自身が、船所五郎ふなしょのごろう正利まさとし
や、串崎の武者を水先案内みずさき
として、水路や潮流の時刻などを、つぶさに調べた上での決定であり、異論の出ようはずもない。 しかし、海上戦を、陸の先陣争いと同一に考えている諸将には、たれが、先鋒せんぽう
をうけたまわるのか。それへの関心が強かった。当然、功名手柄の晴れ場とみな競っているからである。 梶原すらも、その下心があるらしく、こう強く主張し出した。 「過ぎたるは、もういうまい。また、神器の奪還も敵へ当ってからのことよ。破りもせぬ敵から神器を取るわけにはゆかぬ。そこはこの梶原も、思うところもあれば、あすの先鋒は、ぜひ梶原に仰せ付けありたい。先陣の役は、この景時に賜た
び候え」 |