わけて、そこのみが激潮だった。異様なまでの狂瀾
と、潮うしお の吠ほえ
えを、夜のわだつみの一部にたぎり出していた。 名にしおう早鞆はやとも
ノ瀬戸せと とは、ここ。 ──
そこへかかるやいな、まるで木の葉の一片に似た小舟は、巨大な洞ほら
へ吸い込まれて行くように見えた。 白い波光が、めちゃくちゃに舷ふなべり
を打ち、櫓手ろしゅ の櫓ろ
などはまるで用をなさない。ただ翻弄ほんろう
され、流されて行くのみである。時には、渦に入って、渦を脱しきれないかのように、その影がもがいていた。 「おおういっ。おおういっ」 「どこへ行く舟ぞ」 「その小舟、しばし待て」 文字ヶ関の鼻に隠れていた平家方の哨戒船しょうかいせん
に違いない。数隻が追いかけた。 しかし、かれらの兵船が、七挺ちょう
立て十挺ちょう 立ての櫓数ろかず
を備えているにかかわらず、それには耳もかさず通り抜けて行った小舟の方が、はるかに迅はや
かった。 おりふし、潮時刻は、西から東の瀬戸へと、落潮を急にしていた。むくむくと奔流ほんりゅう
の相そう をけわしくしている水路だった。小舟の影は、矢と言ってよい。その早潮に乗りつつ、小舟は壇ノ浦にそい、やがてのこと、満珠、千珠二島の沖まで、ついに来ていた。 「讃岐どの、もう御心配はございませぬ。──
ここまで来れば」 桜間ノ介は、ほっと大息ついて、櫓の手をやすめた。 時実は、潮に濡れた被衣かずき
を、跳は ねて、 「ああ、天の助けよ。壇ノ浦も過ぎているか」 「はや、乗り越えました。いかに、平家船が追わんとしても、ここらはすでに、源氏方の船手の陣。もう来もしませぬ」 「あれは、満珠・千珠の島影と見ゆるが」 「そうです。おお御覧ごろう
じあれ、あの島蔭やら、串崎の蔭に」 「むむ、船勢ふなぜい
の篝かが り火び
よの。── 判官どのの御船はいずれとも分からねど、ともあれ、急いで漕げ、介すけ
どの」 「心得まいた。・・・・── が、それより先に、さくらノ御ご
を、どこか近くの磯べにでも、捨ててやらねばなりますまい」 「げにも」 時実は、見まわした。そして、舟底にうつ伏している彼女を抱え起こして言った。 「さくらノ御ご
。ここは、そなたが望みの源氏の陣所に近い所ぞ。さ、そこの磯へ」 小舟は、磯へ近づいていた。 串崎の鼻の西側らしい。 ところが、磯を見ると、彼女はまた持ち前のわがままを言ってぐずね出した。湛増の乗っている田辺水軍を尋ねて、そこまで送ってくれというのである。 介は、腹を立てて、 「ばかな」 とばかり、動かぬ彼女をむりに起たせた。そして、舟から磯へ追い上げようとしていると、たちまち附近の磯山いそやま
からわらわら駆け下りて来る源氏方の小隊が見えた。 「何者だっ」 兵は、小舟の前に、長柄の光をならべ、特に、さくらノ局の姿を、いぶかしそうに睨ね
めつけた。 ── と、それまでは、ただ哀訴の声をしぼって、舟から離れようともしなかった彼女が、やにわに、 「そこへ来たのは、源氏のつわものか」 と、われから磯へ降り立った。そして、 「源氏の武者なれば、よう知りつろう。わらわは田辺湛増どのが身近な者。田辺水軍のおる磯かその船まで、わらわが身を、送り届けて給も」 と、横柄おうへい
に言った。 介の能遠よしとう
はこれ幸いと、 「女性にょしょう
の言葉に相違おざらぬ。湛増どののおん許まで送り届けていただきた。また、かく申すわれらは、仔細しさい
あって、密々、判官どのの御船までまかる者でおざる。・・・・と申すのみにては、御不審であろうゆえ、」名のみは名乗り申す」 と、あからさまに、彼も姓を明かし、また、もう一人は平大納言どのの子息、讃岐中将時実であることも告げた。 兵たちは、事重大と見たか
「しばし待たれよ」 と、そこかへ一人走って行った。ほどなく、部将らしい者が見え、入念に、訊問じんもん
をかさねた末、 「では、御両所の身は、判官どのの御船まで、われらの兵船でお送りしよう。また女性にょしょう
の方は、湛増どのへ、お伺いの使いを立て、そのうえ、いずれとも、湛増どのの御意ぎょい
にまかせん」 と、裁決した。 附近の浦に、兵船が見える。介の能遠と時実は、それへ移された。さながら、兵の甲冑かっちゅう
と矛ほこ の下に埋まって行くようなものだった。 船は、浦の鼻を巡って、串崎の北側へまわった。すると、景観は一変していた。なんといったらよいか。ただ見る船、船、船、何百隻ともしれない大小の船影である。しかも磯いちめん、不知火しらぬい
とも見える灯の戦そよ ぎが、海の眠りを醒さ
ましてい、人もただならぬ動きをその中に潜めている様子であった。 |