〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/18 (日)  いち ようふね (三)

わけて、そこのみが激潮だった。異様なまでの狂瀾きょうらん と、うしおほえ えを、夜のわだつみの一部にたぎり出していた。
名にしおう早鞆はやとも瀬戸せと とは、ここ。
── そこへかかるやいな、まるで木の葉の一片に似た小舟は、巨大なほら へ吸い込まれて行くように見えた。
白い波光が、めちゃくちゃにふなべり を打ち、櫓手ろしゅ などはまるで用をなさない。ただ翻弄ほんろう され、流されて行くのみである。時には、渦に入って、渦を脱しきれないかのように、その影がもがいていた。
「おおういっ。おおういっ」
「どこへ行く舟ぞ」
「その小舟、しばし待て」
文字ヶ関の鼻に隠れていた平家方の哨戒船しょうかいせん に違いない。数隻が追いかけた。
しかし、かれらの兵船が、七ちょう 立て十ちょう 立ての櫓数ろかず を備えているにかかわらず、それには耳もかさず通り抜けて行った小舟の方が、はるかにはや かった。
おりふし、潮時刻は、西から東の瀬戸へと、落潮を急にしていた。むくむくと奔流ほんりゅうそう をけわしくしている水路だった。小舟の影は、矢と言ってよい。その早潮に乗りつつ、小舟は壇ノ浦にそい、やがてのこと、満珠、千珠二島の沖まで、ついに来ていた。
「讃岐どの、もう御心配はございませぬ。── ここまで来れば」
桜間ノ介は、ほっと大息ついて、櫓の手をやすめた。
時実は、潮に濡れた被衣かずき を、 ねて、
「ああ、天の助けよ。壇ノ浦も過ぎているか」
「はや、乗り越えました。いかに、平家船が追わんとしても、ここらはすでに、源氏方の船手の陣。もう来もしませぬ」
「あれは、満珠・千珠の島影と見ゆるが」
「そうです。おお御覧ごろう じあれ、あの島蔭やら、串崎の蔭に」
「むむ、船勢ふなぜいかが よの。── 判官どのの御船はいずれとも分からねど、ともあれ、急いで漕げ、すけ どの」
「心得まいた。・・・・── が、それより先に、さくらノ を、どこか近くの磯べにでも、捨ててやらねばなりますまい」
「げにも」
時実は、見まわした。そして、舟底にうつ伏している彼女を抱え起こして言った。
「さくらノ 。ここは、そなたが望みの源氏の陣所に近い所ぞ。さ、そこの磯へ」
小舟は、磯へ近づいていた。
串崎の鼻の西側らしい。
ところが、磯を見ると、彼女はまた持ち前のわがままを言ってぐずね出した。湛増の乗っている田辺水軍を尋ねて、そこまで送ってくれというのである。
介は、腹を立てて、
「ばかな」
とばかり、動かぬ彼女をむりに起たせた。そして、舟から磯へ追い上げようとしていると、たちまち附近の磯山いそやま からわらわら駆け下りて来る源氏方の小隊が見えた。
「何者だっ」
兵は、小舟の前に、長柄の光をならべ、特に、さくらノ局の姿を、いぶかしそうに めつけた。
── と、それまでは、ただ哀訴の声をしぼって、舟から離れようともしなかった彼女が、やにわに、
「そこへ来たのは、源氏のつわものか」
と、われから磯へ降り立った。そして、
「源氏の武者なれば、よう知りつろう。わらわは田辺湛増どのが身近な者。田辺水軍のおる磯かその船まで、わらわが身を、送り届けて給も」
と、横柄おうへい に言った。
介の能遠よしとう はこれ幸いと、
女性にょしょう の言葉に相違おざらぬ。湛増どののおん許まで送り届けていただきた。また、かく申すわれらは、仔細しさい あって、密々、判官どのの御船までまかる者でおざる。・・・・と申すのみにては、御不審であろうゆえ、」名のみは名乗り申す」
と、あからさまに、彼も姓を明かし、また、もう一人は平大納言どのの子息、讃岐中将時実であることも告げた。
兵たちは、事重大と見たか 「しばし待たれよ」 と、そこかへ一人走って行った。ほどなく、部将らしい者が見え、入念に、訊問じんもん をかさねた末、
「では、御両所の身は、判官どのの御船まで、われらの兵船でお送りしよう。また女性にょしょう の方は、湛増どのへ、お伺いの使いを立て、そのうえ、いずれとも、湛増どのの御意ぎょい にまかせん」
と、裁決した。
附近の浦に、兵船が見える。介の能遠と時実は、それへ移された。さながら、兵の甲冑かっちゅうほこ の下に埋まって行くようなものだった。
船は、浦の鼻を巡って、串崎の北側へまわった。すると、景観は一変していた。なんといったらよいか。ただ見る船、船、船、何百隻ともしれない大小の船影である。しかも磯いちめん、不知火しらぬい とも見える灯のそよ ぎが、海の眠りを ましてい、人もただならぬ動きをその中に潜めている様子であった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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