〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/17 (土)  いち ようふね (二)

時忠は、一亭の内にすわって、身の位置を取り得たと思うと、何かは知らず、後ろめいた孤独感と寂寥せきりょう にくるまれた。こうして、一門の決戦を戦の外で、傍観しているということの辛さだった。同族とともに死所につくよりも、ここの位置は、苛烈かれつ な未来の煉獄れんごく を約し、また、死にまさ る意義を持つのだとは、自身へ言ってみるものの、世間の嘲罵ちょうば だの冷たい眼が、もうそくそくと身のまわりに感じられて来る。
「ああ、、あだ覚悟が足りない。そんなことで、どうしてこの先 ──」
時忠は、自分を、人間同士の闘争の上におこうとした。同族とその敵との戦争に、冷血であろうとした。帰結は彼に分かっていた。死ぬ者は死ぬであろう。これ以上、すべ なき心をわずら うまい。期する目的に揺るぐまいと、思った。
「お、そこにいたのか」
ふと彼は、片隅にいる芦屋に気づいた。悄然しょうぜん と、彼女はただすわってい、そしておりおり、死んだ老父を思うのか、袂で顔をふいていた。
「さても、あわれ」
と見たが、また、
「・・・・うらやましくもある身かな」
とも、時忠には、ながめられる。
「芦屋。・・・・淋しいか。長い戦ではない。やがて、下の町屋根へも、じきに平和な陽がさすであろう。それまでの辛抱ぞ」
「・・・・はい」
「合戦がすまば、そなたの老父の死も、ねんごろに弔うてしん ぜよう。そなたが身の落ち着きも、考えてつかわそう。案じぬがよい。さは泣くな。若い身そらお、泣きやつ れさすまい」
言いつつ、時忠は、そこにめぐ らしてある小縁の低い欄干らんかん へ、身をもたせかけた。
すると、欄も朽ちていたにちがいない。体の重みで、もろく、欄の一端がぐらと動いた。
「あっ、あぶない」
時忠も思わず言い、慰められていた芦屋も、われを忘れて、小さい声をたてた。
腐った木片が、小縁の下へ、音をさせて落ちて行った。亭は、がけ に臨んでい、崖の下にも、一亭のかや 屋根やね が見えた。
おそらく、そのことがなかったら、どっちも気づかずに終わっていたかも知れない。
── ふと、下の屋根の内でも、破れ戸を開けるような音がしていた。
同時に、薄い灯影が、そこから外へ した。あきらかに、たれか人間がいた証拠といえよう。── 時忠は、ぎょっとして、少し身を後ろへ退 いた。こちらには、灯影はない。
「なんだ? 今の物音は」
と、下で言っている
のぶとい声柄だ。
すると、それとは別な声が、どこかで、
「また、むささびの悪戯か、山猫やまねこ かなんぞであろう。はやくそこは閉めたがいいぞ。こんな晩だ、微かな灯でも、遠目に知れる」
「いや、遠目の心配よりも、どこか近くで、女の声がしたような気がするのだが」
「はははは、おぬし女に飢えているので、もの き声まで、それと耳に聞こえるのじゃないか」
「ばかな。・・・・」 と、いちど、のぶとい声はやんで、しんとしていたが、
蟹丸かにまる 、蟹丸」
と、召使のわらべ でも呼んでいるらしく、ほどなくまた、上の時忠の方へまで、こんな声が聞こえていた。
「蟹丸、見て参れ。この上の亭の辺りで人の気配がするのだ。どうも気になる。そっと、見とどけて参れ」
「はい」
蟹丸というのは、たしか朱鼻あけはな伴卜ばんぼく の侍童であった。 「はい」 と言ったのが、その蟹丸とすれば、一方の声は、彼のあるじの伴卜とするほかはない。
平家が屋島を去って後、伴卜は小荷駄こにだ に持ち物を積ませ、陸路を丸亀へくだり、丸亀から船便で周防から長門へ渡ったはずである。
蟹丸を加え、その時の同行は三人だった。もう一人はいうまでもなく、奥州の吉次。
── 今、崖下でした話し声の一人が、それかもわからない。まろみのない奥州言葉には特徴があり、調子もどこか吉次に似ていた。
いずれにせよ、蟹丸と呼ばれた侍童は、あるじの命に従って、こっそり時忠の一亭をうかがい見、やがて見た通りを復命していたものであろう。
けれど、時忠の方は、それなり無関心だった。そんなやから が自分を気にしていたとは思いもしない風であった。
時忠には、今や一切が些事さじ に見えた。
ただ、今夜から明日へと循環して行く宇宙の眼に見えぬ “時の歯車” だけが、彼の胸を刻々にきざんでいた。── 先に別れた一子時実「の吉左右もいかにと、待ちわびられて、ただ祈るが如きおも もちで星を見ていた。見えぬ海の遠くをひたすら凝視していた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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