〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/16 (金)  臨 海 館 (三)

道は、町のうし ろ山へ入って行く。いや道もないやみもあった。かなり高くへ来たと思う。たった今、小舟を乗り捨てた磯の白い水際みずぎわ が、雑木越しの眼の下に見える。
「かしこに見ゆる古舘ふるたち が、御案内せよと申しつかった所でございますが」
兵のかしら が、指さして、時忠をかえりみた。
「あれが、臨海館のあと か」
一変した山風の中にたたず んで、時忠は、あたりの巒気らんき と、胸の焦燥しょうそう の不調和に、やや立ち惑う風だった。
「── ここが、そのあと なれば、天智紀てんじき に “長門ながときと ” と見ゆる古き由緒ゆいしょあと もこの辺か・・・・」
彼のつぶやきは、彼の古い記憶からよび起こされたらしい。
彼がまだ若い頃の知人に、少納言しょうなごん 藤原ふじわらの 信西しんぜい という者があった。
故清盛とは、無二の友であり、平家一門の発祥にとっては、忘れられない人でもある。
信西は、乱の張本人に せられ、その終わりは非業ひごう最期さいご を遂げたが、しかし博学多才なこと、当時の左府頼長といずれかと言われたものだった。
かつて、その少納言信西しんぜい が、大宰府に使いした途中、この赤間ヶ関に泊って、
あそぶ長州ちやうしう 臨海館りんかいくわん
という一詩を都の友へ寄せてきたことがある。
時忠は今、それをおも い出したのだ。
信西の詩は、たしか七言八絶で、詩句の初めは忘れたが、

郷涙きやうるゐ 数行すうこう 湖月下こげつのした
客遊きゃくいう 千里せんり 楚雲西 そうんのにし
とか。
洞中雨 どうちゆうのう 餐暮雲近さんぼうんちかく
海角かいかく 浪平らうへい 秋漢しうかん ひくし
はるかに おもふ 洛陽らくやう 詩酒友ししゆのとも
独吟どくぎん 独酌どくしやくして 待村鶏そんけいをまつ
など、きれぎれな詩句が、時忠の胸を往来した。
その人も く、世は三十年の有為うい 転変てんぺん をつげて来たが、信西しんぜい がこの地方に来たころは、その詩題にもあるとおり、臨海館も、繁栄していたにちがいない。海外の使節や蕃客ばんきゃく を迎えるおおやけ な旅館として、夜ごと、美しい灯を海峡の波映はえい に見せ、埠頭ふとう の酒家にはひな びた管絃や脂粉しふん の香が漂い、朝は後朝きぬぎぬ の別れを惜しむ男女やら駅路の鈴の音ににぎ わっていたことであろう。
それが、
今は、ただ見る、死の闇と、不気味な海原うなばら だ。人の生きの営みはこの天地には息もしていないかのようである。
生業たつき を失った無数の人びとは、どこへ戦火を避けて隠れたのか。この暗黒は昨日今日のことだろうが、赤間ヶ関のさび れは、ここが戦場となり始めた去年以来の荒廃に違いない。
「── 罪なことではある」 と、時忠は浩嘆こうたん せずにいられない。
彼は元来、庶民なるものを、上流者では随一に知っていた。── 貧しい公卿の子に生まれ、ちまたの不良児となり、ひとしく貧乏平氏のせがれだった若き平太清盛とは、ともにわんわん市場を歩いたり、 け鶏に血みちを上げた時代もある。
運命ほど奇なものはない。その彼が今日、ひとりたれも行きえない荊棘いばら の道を、平家の未来の為に歩もうとしていた。道は死より険しく、辱にも飢えにも耐え切る意志がなくては出来ない。屋島このかた、彼は、その隠忍をし通して来た。しかし時忠は、くじけない。── こうして今夜もなお最後のねばりは失っていない。それは彼が元来、堂上の長袖でなく、平家の二世三世の公達とも違うところでもあったろう。弱冠にもった市井しせい の浮浪児的な背骨と、苦労人的な世間観などが、彼自身も気づかない性情の中に、いま黙々とそれが働き出していたものといってよい。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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