道は、町の後
ろ山へ入って行く。いや道もないやみもあった。かなり高くへ来たと思う。たった今、小舟を乗り捨てた磯の白い水際みずぎわ
が、雑木越しの眼の下に見える。 「かしこに見ゆる古舘ふるたち
が、御案内せよと申しつかった所でございますが」 兵の頭かしら
が、指さして、時忠をかえりみた。 「あれが、臨海館の址あと
か」 一変した山風の中に佇たたず
んで、時忠は、あたりの巒気らんき
と、胸の焦燥しょうそう の不調和に、やや立ち惑う風だった。 「──
ここが、その址あと なれば、天智紀てんじき
に “長門ながと ノ城きと
” と見ゆる古き由緒ゆいしょ
の址あと もこの辺か・・・・」 彼のつぶやきは、彼の古い記憶からよび起こされたらしい。 彼がまだ若い頃の知人に、少納言しょうなごん
藤原ふじわらの 信西しんぜい
という者があった。 故清盛とは、無二の友であり、平家一門の発祥にとっては、忘れられない人でもある。 信西は、乱の張本人に擬ぎ
せられ、その終わりは非業ひごう
な最期さいご を遂げたが、しかし博学多才なこと、当時の左府頼長といずれかと言われたものだった。 かつて、その少納言信西しんぜい
が、大宰府に使いした途中、この赤間ヶ関に泊って、 “遊あそぶ
、長州ちやうしう 臨海館りんかいくわん
” という一詩を都の友へ寄せてきたことがある。 時忠は今、それを憶おも
い出したのだ。 信西の詩は、たしか七言八絶で、詩句の初めは忘れたが、 |