〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/16 (金)  臨 海 館 (二)

彼女の叫びは、本性から出た本音ほんね というものだろう。今となっては、湛増の許へ、帰りたくて仕方がないに違いない。
自分一身のほか、何ものも考えられない女なのである。こういう女の取り乱しを見ると、時忠も思い直さずにはいられなかった。
自分たちが去った後、もし平家方のたれかがここへ上がって来たら、この女はまた、置き去りにされた恨みからも、こよい見聞きしたことすべてをしゃべりちらすに相違ない。
懸念は多分にある。
といって、この驕慢きょうまん で無恥そのものでしかない 女などを、斬って去る気にもなれなかった。時忠は、ただ当惑顔な時実へ、ついに言ってしまった。
「やれ、面倒な、そのさくらノ 。いっそのこと、舟底へ乗せてゆき、望みの場所へ捨ててやれい」
「では」
「おお、そして女の被衣かずき を、おこと が身に引っかず き、早鞆ノ瀬戸のかためを、まぎ れ通るもよかろうぞ。万一、物見舟に見とがめられても、ただわなな き伏しておれば、そこは、すけ が、巧みにいいのが れよう」
「それも、一策」
と、桜間ノ介も、小舟から言った。
からくも、彼女はその中へ拾い込まれた。── 被衣は、時実が取って頭から深くかぶり、はやくも漕ぎ出る波上から、父の影へ、
「くれぐれ、こなたの先は、お案じ給わりますな。いずれ、きつ 左右そう は、明朝までに」
と、振り返って言った。
── 明朝までに。
子は告げて、漕ぎ去ったが、時忠の親心は、見送らずにいられなかった。あるいは、今の声が、父子永遠の別れかも知れないと思う。
「・・・・おお、われとても、こうしてはいられぬ身」
時忠もすぐ後からべつな舟に乗った。
芦屋をいたわりながら、一つ舟へ抱え乗せて、櫓手ろしゅ の兵や、ほかの一そうへ乗った案内の兵へ向かって、
「急いでくれい。介が申した所へ」
と、うながした。
さきの時実の影は、東の遠くへかき消えて行ったが、時忠の舟は、間近な北の対岸へみよし を向け、まもなく、赤間ヶ関の町屋を離れた磯の一端へ、 ぎ寄せていた。
「・・・・・どこぞ」
「しばし、おひろ いを願いまする」
十数名の小勢だが、油断のない眼と身構えが、一人一人の兵に見える。時忠の身を他へ隠してそれの護衛に当るという大任であるだけに、阿波民部の部下の内でも選ばれた者たちに違いなかった。
やがて町中へかかった、平家勢は退き、源氏の兵馬も見えず、もちろん、住民はみな避難している。屋根の一つ一つも墓標が並んでいるような絶息した町でしかない。たまたま、うごめく物影があれば、死にひん している病人か野良犬であった。
── が、どこかでは、赤黒い煙がなお夜空をただらしてい、そしてどこにも、雄叫びは聞こえないのだ。避難した住民が、拾うまもなくこぼして行ったらしい子どもの雑衣ぼろ やら食器の破片が路面に見られた。蹴散けち らされた馬糞ばふん 、弓の折れ、捨てかぶと など 「ああ合戦なのだ」 と、今さらのように、無人の町の不気味さが肌にせまる。 

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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