彼女の叫びは、本性から出た本音
というものだろう。今となっては、湛増の許へ、帰りたくて仕方がないに違いない。 自分一身のほか、何ものも考えられない女なのである。こういう女の取り乱しを見ると、時忠も思い直さずにはいられなかった。 自分たちが去った後、もし平家方のたれかがここへ上がって来たら、この女はまた、置き去りにされた恨みからも、こよい見聞きしたことすべてをしゃべりちらすに相違ない。 懸念は多分にある。 といって、この驕慢きょうまん
で無恥そのものでしかない 女などを、斬って去る気にもなれなかった。時忠は、ただ当惑顔な時実へ、ついに言ってしまった。 「やれ、面倒な、そのさくらノ御ご
。いっそのこと、舟底へ乗せてゆき、望みの場所へ捨ててやれい」 「では」 「おお、そして女の被衣かずき
を、お汝こと が身に引っ被かず
き、早鞆ノ瀬戸のかためを、紛まぎ
れ通るもよかろうぞ。万一、物見舟に見とがめられても、ただ顫わなな
き伏しておれば、そこは、介すけ
が、巧みにいい遁のが れよう」 「それも、一策」 と、桜間ノ介も、小舟から言った。 からくも、彼女はその中へ拾い込まれた。──
被衣は、時実が取って頭から深くかぶり、はやくも漕ぎ出る波上から、父の影へ、 「くれぐれ、こなたの先は、お案じ給わりますな。いずれ、吉きつ
左右そう は、明朝までに」 と、振り返って言った。 ──
明朝までに。 子は告げて、漕ぎ去ったが、時忠の親心は、見送らずにいられなかった。あるいは、今の声が、父子永遠の別れかも知れないと思う。 「・・・・おお、われとても、こうしてはいられぬ身」 時忠もすぐ後からべつな舟に乗った。 芦屋をいたわりながら、一つ舟へ抱え乗せて、櫓手ろしゅ
の兵や、ほかの一そうへ乗った案内の兵へ向かって、 「急いでくれい。介が申した所へ」 と、うながした。 さきの時実の影は、東の遠くへかき消えて行ったが、時忠の舟は、間近な北の対岸へ舳みよし
を向け、まもなく、赤間ヶ関の町屋を離れた磯の一端へ、漕こ
ぎ寄せていた。 「・・・・・どこぞ」 「しばし、お歩ひろ
いを願いまする」 十数名の小勢だが、油断のない眼と身構えが、一人一人の兵に見える。時忠の身を他へ隠してそれの護衛に当るという大任であるだけに、阿波民部の部下の内でも選ばれた者たちに違いなかった。 やがて町中へかかった、平家勢は退き、源氏の兵馬も見えず、もちろん、住民はみな避難している。屋根の一つ一つも墓標が並んでいるような絶息した町でしかない。たまたま、うごめく物影があれば、死に瀕ひん
している病人か野良犬であった。 ── が、どこかでは、赤黒い煙がなお夜空をただらしてい、そしてどこにも、雄叫びは聞こえないのだ。避難した住民が、拾うまもなくこぼして行ったらしい子どもの雑衣ぼろ
やら食器の破片が路面に見られた。蹴散けち
らされた馬糞ばふん 、弓の折れ、捨て兜かぶと
など 「ああ合戦なのだ」 と、今さらのように、無人の町の不気味さが肌にせまる。 |