「や。さくらノ御
か。・・・・ この島にまだそんな女性にょしょう
がいたとは、つい、忘れていた、忘れ物のように」 時忠は苦笑した。彼女へはちとむごい気がしたが、偽らぬ自分のつぶやきに自分でおかしくなったのだ。追いすがられて、その姿を見るまでは、念頭になかったのである。 「おなさけないおことばを。それでなくても心細さ恐ろしさ、人心地もなく、四方よも
の波ばかり見て泣き暮れておりましたのに」 彼女は、時忠父子の足もとへ身を投げて、かき口説いた。 こんな小島の洲す
に、ただひとりおき残されたら、生きてゆくすべもあるまいと、狂おしげなうろたえを持って、追いすがって来た彼女であった。 宗盛に疎うと
まれて、猫の子でも捨てるようにこの小島へ移されて来た日から、彼女は島の一つの漁小屋の身を寄せていた。それもつかの間、今宵の騒ぎを見たのだった。 ふいに島へ上がって来た一群の武者のため、小屋の老漁夫は斬き
りすてられるし、娘の芦屋は、時忠父子の家の厨くりや
へ逃げ込んで、あのまま、そこの土間に気を失ったしまったらしい。 後からそこへ来たさくらノ局は、芦屋を介抱している間に、時忠の居間に起こった騒ぎや後の密談まで、耳にしていた。当然、彼女は夜明けとともに始まるらしい源平両陣の大船戦おおふないくさ
の、今がただならぬ前夜であることを察した。それも一そう彼女の恐怖をつのらせたに違いない。芦屋とともに時忠父子の後を追い 「あわれ、わらわたちも、そのお舟にて、ともによそへ伴ともの
うて給た べ」 と泣きすがってきたわけだった。 彼女とすれば、かほど必死であったのに、時忠からは
「── 忘れていた、忘れ物のように」 と言われたので、悲しさに悲しさが加わり 「・・・・お情けない」 と、慟哭どうこく
したのもむりはない。 前から知らない仲ではないのだ。彼女は幾度か、時忠父子を訪ねている。そして、宗盛に疎うと
まれた仔細やら、身の上話まで、くどくどと訴えたこともある。 八島へ来るまでは、紀州田辺の別当館べっとうやかた
にいて、女王の如く侍かしず かれ、湛増法印たんぞうほういん
の寵ちょう を身ひとつに集め、また、その田辺水軍を、平家の味方へ引く裏面工作の際には
── それはついに不成功には終わったが ── どんなに蔭で働いたか知れないものを、という愚痴やら、いきさつなども、時忠父子へは聞かせてある。 だのに、耳にもとめてくれなかったのか。宗盛からは捨て猫のようにされ、時忠父子には、芥あくた
のように忘れ去られ、身も世もないといった姿である。 「はて。やっかいな」 時忠は足もとへ、眼をくれて、舌打ちならした。 「おりもおり、重荷おもに
に小づけ」 とも言いたげな当惑顔であった。 「時実、なんとしよう。この、さくらノ御ご
と、芦屋の身は」 「芦屋は、不びんな娘でございまする」 「そうだの。牢舎の厨くりや
を朝夕に見舞うて、何かと、よう世話してくれた漁小屋の親娘。情なさ
けには情けで報むく わねばすむまい。老爺ろうや
の亡骸なきがら と娘の身は、時忠の舟に乗せ、関の行く先へ連れて退の
こう。あとは、さくらノ御ご 一人」 「さ?・・・・。わららが去れば、飛ぶ翼もないひとり雁がり
のようなこの女性にょしょう 、捨て去るのも、憐あわ
れに思われますが」 「しかし、美しいゆえ、なお足手まといだ・今のばあい、慈悲のみはいっておられまい。時実、お汝こと
は先を急げ、大事な使いぞ」 「はいっ」 小舟は、三艘ほど見える。 すでに桜間ノ介は、その一そうの櫓柄ろづか
を把と って、時実が乗るのを待っていた。 ──
時実がそれへ向かって歩みかけた。 すると、さくらノ局は、時実の袴のすそを抑えて、 「時実さま。お願いです」 と、ふたたび、必死となっていった。 「湛増どのの船勢ふなぜい
も、源氏の水軍に加わって、串崎に来ておりましょう。もう平家には愛想あいそ
がつきました。元の田辺の別当どのの許へ帰りたい・・・・時実さま。あなたも、どうせ源氏の陣へひそかなお使いに向かわれるのではございませぬか、その舟へ、わらわも乗せて、おなじ捨てるものなら源氏の中で、この身をお捨てくださいませ」
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