桜間ノ介は、ふたたび、時忠父子へ向かって、 「──
ひとまず、先の凶徒は逃げ去りましたが、夜半から明日へかけて、ふたたびの魔手の襲い来ることは必定です。もはや、ここにお座あっては、死を待つようなものと存ぜられる。──
それゆえ、じつは、赤間ヶ関のさる人知れぬ場所へ、御父子をお連れ申さばやと、お身支度まで、持参して参ったのでおざる。ともあれ、おん狩衣
のままでは不便、兵どもの眼にも怪しまれましょう。お支度変えなされませ」 「鎧よろい
を着よと申すか。・・・・いや、戦わざる人間が、大鎧など着込むは、一そう世の笑い種。腹巻はらまき
のみを着よう」 と、時忠もまた、この狭い一洲島いちすじま
に、これ以上いることの危険さは、充分に知っていた。 「介、行く先はどこぞ」 「臨海館の址あと
。今、荒れ朽ちてはおりますなれど」 「お、むかし、異朝の臣や蕃客を迎えるに用いた駅路うまやじ
の館たち の址か」 「そこなれば、人の気づく怖おそ
れもなし、町の小高い所にありますゆえ、あすの両軍の動きも」 「して、介は」 「自身、そこへ御案内申さばやと、これへ来たのでございますが、源氏の中軍へ、御子息時実どのをお連れ申すには、この介が、お供いたして参らねば、むずかしかろうと思われますゆえ」 「おう、この時忠には、誰た
ぞ、道を知るものが先に立ってくれればよいぞ。── そこに控えた兵どもは、どこの手勢か」 「それがしの兄、阿波民部あわのみんぶ
重能しげよし の家来にござりまする」 「なに、阿波民部の兵とな。では、すでに阿波民部も」 「ひそかに、明日、内応のこと、胸にたたんでおりまする。大理どのの深き御意中のほどを、会うても告げ、文ふみ
にも秘めて、とくと諜しめ し合わせてありますれば」 「そうか。・・・・そして今は」 「筑紫党と舟を並べて、夕ごろより田野浦に先陣を承うけたまわ
っておりまする。両軍、海上にまみゆるまでは、秘事、色にも出さずに」 「みかどの御事、神器の御事。乱軍となったるさいの、心得なども」 「可惜あたら
と、後に悔いないよう、細々こまごま
、申し合わせてありまする。── が、まだ兄民部が内応の儀は、源氏へ通じてはありませぬゆえ、時実どのと御一しょに、これより串崎へ舟を忍ばせ、それも直々、九郎義経どののお耳に入れておかねば相なりませぬ」 「そうか、源氏方より誓いの一札いっさつ
を取っておくこと、それにつけ、きっと、果たせよ。よいか時実」 「はい」 時実の眉には、死を賭と
している色があった。 初更しょこう
はいつか過ぎようとしている。心なしか、こよいは星の移行も早い。時忠は狩衣の上に腹巻だけを鎧よろ
い、時実もそれに倣なら った。そして、短いが久しい思いであった隠忍と牢愁ろうしゅう
の小屋を捨てて、父子、外へ出た。桜間ノ介と、彼の連れている十名ほどな兵も、あとに従って、浜の方へ歩み出した。 すると、すぐ後ろから、時実を呼ぶ声がした。
「── 讃岐さま」 と、それは聞こえた。 きれいな女性の声であった。 「・・・・?」 人びとは、立ち止まった。 一人かと思いのほか、それは相擁あいよう
しつつ小走りに喘あえ いで来る女ふたりであった。そして、一つ被衣かずき
を二つの身にかぶりあっていた。 「あ。芦屋か」 それは、時実にも、すぐ思い出された。 けれど、もひとりの女性の方は、近々と寄って来るまで、たれとも思いあたらなかった。 「讃岐さま。ここをお立ち退の
きなれば、どうぞ、わらわたちも、ともにお連れ退きくださいませ。はや合戦も迫るとのこと。どうしてこんな小島におられましょう。・・・・空恐ろしゅうございまする。おねがいです。お慈悲に、一つお舟へ」 近づくやいな、一方の女が言った。いや叫ぶに近い声だった。 見れば、芦屋を抱えて、喘あえ
いで来たのは、数日前、彦島から来た武者船の上から、この小島の洲へおき捨てられた、あの、さくらノ局なのだった。 |