〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/15 (木) 不 戦 の 人 (四)

桜間ノ介は、ふたたび、時忠父子へ向かって、
「── ひとまず、先の凶徒は逃げ去りましたが、夜半から明日へかけて、ふたたびの魔手の襲い来ることは必定です。もはや、ここにお座あっては、死を待つようなものと存ぜられる。── それゆえ、じつは、赤間ヶ関のさる人知れぬ場所へ、御父子をお連れ申さばやと、お身支度まで、持参して参ったのでおざる。ともあれ、おん狩衣かりぎぬ のままでは不便、兵どもの眼にも怪しまれましょう。お支度変えなされませ」
よろい を着よと申すか。・・・・いや、戦わざる人間が、大鎧など着込むは、一そう世の笑い種。腹巻はらまき のみを着よう」
と、時忠もまた、この狭い一洲島いちすじま に、これ以上いることの危険さは、充分に知っていた。
「介、行く先はどこぞ」
「臨海館のあと 。今、荒れ朽ちてはおりますなれど」
「お、むかし、異朝の臣や蕃客を迎えるに用いた駅路うまやじたち の址か」
「そこなれば、人の気づくおそ れもなし、町の小高い所にありますゆえ、あすの両軍の動きも」
「して、介は」
「自身、そこへ御案内申さばやと、これへ来たのでございますが、源氏の中軍へ、御子息時実どのをお連れ申すには、この介が、お供いたして参らねば、むずかしかろうと思われますゆえ」
「おう、この時忠には、 ぞ、道を知るものが先に立ってくれればよいぞ。── そこに控えた兵どもは、どこの手勢か」
「それがしの兄、阿波民部あわのみんぶ 重能しげよし の家来にござりまする」
「なに、阿波民部の兵とな。では、すでに阿波民部も」
「ひそかに、明日、内応のこと、胸にたたんでおりまする。大理どのの深き御意中のほどを、会うても告げ、ふみ にも秘めて、とくとしめ し合わせてありますれば」
「そうか。・・・・そして今は」
「筑紫党と舟を並べて、夕ごろより田野浦に先陣をうけたまわ っておりまする。両軍、海上にまみゆるまでは、秘事、色にも出さずに」
「みかどの御事、神器の御事。乱軍となったるさいの、心得なども」
可惜あたら と、後に悔いないよう、細々こまごま 、申し合わせてありまする。── が、まだ兄民部が内応の儀は、源氏へ通じてはありませぬゆえ、時実どのと御一しょに、これより串崎へ舟を忍ばせ、それも直々、九郎義経どののお耳に入れておかねば相なりませぬ」
「そうか、源氏方より誓いの一札いっさつ を取っておくこと、それにつけ、きっと、果たせよ。よいか時実」
「はい」
時実の眉には、死を している色があった。
初更しょこう はいつか過ぎようとしている。心なしか、こよいは星の移行も早い。時忠は狩衣の上に腹巻だけをよろ い、時実もそれになら った。そして、短いが久しい思いであった隠忍と牢愁ろうしゅう の小屋を捨てて、父子、外へ出た。桜間ノ介と、彼の連れている十名ほどな兵も、あとに従って、浜の方へ歩み出した。
すると、すぐ後ろから、時実を呼ぶ声がした。 「── 讃岐さま」 と、それは聞こえた。
きれいな女性の声であった。
「・・・・?」
人びとは、立ち止まった。
一人かと思いのほか、それは相擁あいよう しつつ小走りにあえ いで来る女ふたりであった。そして、一つ被衣かずき を二つの身にかぶりあっていた。
「あ。芦屋か」
それは、時実にも、すぐ思い出された。
けれど、もひとりの女性の方は、近々と寄って来るまで、たれとも思いあたらなかった。
「讃岐さま。ここをお立ち退 きなれば、どうぞ、わらわたちも、ともにお連れ退きくださいませ。はや合戦も迫るとのこと。どうしてこんな小島におられましょう。・・・・空恐ろしゅうございまする。おねがいです。お慈悲に、一つお舟へ」
近づくやいな、一方の女が言った。いや叫ぶに近い声だった。
見れば、芦屋を抱えて、あえ いで来たのは、数日前、彦島から来た武者船の上から、この小島の洲へおき捨てられた、あの、さくらノ局なのだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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