〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/15 (木) 不 戦 の 人 (三)

時忠は愚を覚った。この になって、なんの思案の余地があろう、と。
すけ
「はっ」
「して、源氏方の水軍が進み出るは、いつと見たぞ。明日の夜明けか」
「お察しの通りかと思われまする。潮の満干みちひ の時刻、潮向きの順逆など、平家方の計るところは、また、源氏方も深くあん じるところ。それらの駆け引きいかんにもよりましょうが」
「なおもって、猶予はならぬ。すけ 、その舟で、わしを源氏のおる串崎の陣まで送れ。親しく、判官どのと会って、直々じきじき 、男同士の誓言かため をしたい」
「や、もってのほかな」 と、桜間ノ介は、時忠の思い立ちを、余りにも冒険なと、言って 「── 早鞆ノ瀬戸をさかいに、平家方の小早舟こばや など、網の目の備えを固めおりまする。万が一にも、捕えられたら、お望事すべて、水泡すいほう に帰しましょう。このすけ ですら、すでに判官どのへ近づくことは、容易ではありませぬに」
「それも成らぬか・・・・」
憮然ぶぜん として、時忠はつぶやいた。
義経を疑うのではないが、言葉と言葉との、それも人を介しての私的な約束だけでは、どうしても一抹いちまつ の不安を禁じ得ない。
「父上、わたくしが参りましょうず。串崎へ参って、判官どのより、かたいお誓いを取ること、この時実にお命じ給わりませ」
「うム、時実か。・・・・よう申した。そちなれば、あるいはよからんあ。介、どうだの」
「さあて、御子息なりとて、途中の難に、変わりはございませぬが」
「いなとよ、介どの。もし見つかって捕われても、時実なれば、いいのが れようすべもある。また、いよいよの切羽せっぱ とならば、海へ身を投げ捨て、自害しても惜しゅうはない。父上、わたくしが参りましょう。── 介どの、わしを連れて行ってくれ」
桜間ノ介は、思案顔だったが、やがて決然と、
「心得ました。おん供いたしましょうず」
そして彼は、縁先へ立って出て、どこかに待たせておいたらしいほかの者をさし招いた。
彼と同じく、みな半首はつぶり けた小具足の兵だった。数は十人がらみ、二領の大鎧おおよろい を、縁の上において、すぐ、下にひざまずいた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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