〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/05/14 (水) 不 戦 の 人 (二)

相見ても。灯はともされても。しばらくはただ。もだ うているだけであった。
ここ数日のことは、お互い、かんたんな言語では、あらわし得ないのであろう。── なんたる刻々の変化、けわしい様相。そして、さしせまった今夜という緊迫感やら、様々な思いが、まず、相互の胸を、驟雨しゅうう のごとく打ちたたいている。
が、無言はまた、百言を語るものであった。時忠は、待つものだけを、ただちにたず ねた。
すけ判官ほうがん どのに、会うてくれたか」
「は。室津むろつ のお宿にて」
「そのおりのことばは、先に聞いた。その後は」
「昨夜、串崎の御陣へ忍んで、ようやく、お目にかかりました。── さきの 大理だいり (時忠) どのが御意中、義経が胸に、委細たたみおいた。と重ねて仰せでした」
「・・・・とのみでは、心もとない。先にも申し送ったように、なんとか、御誓書を えぬものか」
「その儀、切にお願い申しましたが、判官どのの仰せには ── あわれ、察せよ、義経は大将軍たれど、鎌倉どのの一代官に過ぎず、べつに一方の大将軍三河どの (範頼) もおられ、同陣には軍監の梶原もおること。他にはか らず、義経一存にて、誓書を敵のひとりへ渡したりなどと沙汰されれば、後日かえって、紛々ふんぷん誹謗ひぼう となり、時忠どのが望むところと、逆なことになろうとも知れず、と」
「では、どうしても、誓書はだめか」
「しいて、お迫り申すと、判官どのには、おくるしげなおも もちを見せられ、ただ、ままならずとのみ・・・・」
「あの君の、お立場は分かる。とは申せ、ひとたび、国もなく る陣もなき敗亡の生存者となり終わらば、もう何を申し、何を願う資格もない。残るは、生きながらわら われ者にされる敗者の空骸なきがら があるだけだ。── どうしても、神文のお誓いをいただいておかぬことには。・・・・介よ、なんとか、ならぬか」
今は、意気地なく見えるほど、眼のふちの小皺こじわ から、時忠は涙をこぼしそうにした。
しかし、彼の妄執もうしゅう は、彼に荘厳なは光燿こうよう であった。── 伊勢平氏の発祥から今日の末路までを、生涯に見とおしてきて、今や六十路むそじ に近かろうとする彼が、その理性から到達したただ一筋の信念なのだ。
彼の願うところは、初めから和議にあった。
けれど、和議をはかる機会は、むなしく逸してしまった。時すでに遅しである。
それにしても、最後の最小限の希望として、彼はなお、一縷いちる の願望を捨てていない。
幼帝と女院の、御救出。
また、あまたな女たち、わらべ たち、とが なき人びとの助命を ── その救出を、なんとか、計ってやりたいということ。
それであった。
さらに、あわよくば、平家の血脈とその家を、どんな形の下にでも、細々にでも、遺し伝えたいという望みもあった。もし、それもかなえば、故入道その (清盛) から、この世でさんざん世話になった恩顧に対して、一片の報恩になるのではあるまいか。
── 桜間ノ介をかい し、彼は、率直そっちょく にそれらの思いを、密書に託して、敵の大将軍義経へ、通じたのだ。
義経は、返書を、桜間ノ介へ渡した。
「諾」 とあった。
くわしくはないが、一諾、こころよく、幼帝女院のおん身の保証はもちろん、平家のあとあとについても、力を添えようとは言ってくれた。
もとより無条件ではない。
義経のはわ からも、時忠へ対し、協力の分担を課してきた。合戦の当日、内から起こって離反をあきらかにするとともに、賢所かしこどころ (三種の神器) が無事安泰に源氏側へ移るように手を打つことを求めている。
「諾」 と 「応」 との両者の間は、すけ を通して、異存なく結ばれた。── が、ただ一つ今夜にまで持ち越された未解決の一事がある。── 後日のため、おおやけ なる誓書が欲しい、とする望みに対し、先方の返答は 「義経は鎌倉どのの一御家人にすぎず、かつはこのこと、梶原その他にはか らば、おそらくはその反対に会わん」 という拒みであったのだ。
「・・・・さて、いかにせん?」
時忠は、暗いおもて を、しょく にそむけて、考え込んだ。
大事中の大事。しかも時は、明日を待てぬまでに迫っていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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